テラーノベル
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帰りのバスは、夕方の光に包まれていた。
窓の外では街が遠ざかり、車内には、修学旅行特有のざわめきが満ちていた。
「はい、じゃあ席に戻ってね〜」
教師の声が響く。けれど、誰も従わない。前のほうでは笑い声が弾け、後部座席では何かがぶつかる音がした。
遥の席のまわりだけ、空気が濁っていた。
「なぁ、こいつ、博物館で泣いてたよな」
「“戦争は悲しい”とか思っちゃったんじゃね?」
誰かが笑い、ペットボトルを投げた。中の水が飛び散って、遥の頬を濡らす。
「……別に、泣いてねぇよ」
低く言い返しても、返ってくるのは笑いだけだ。
「おー、しゃべった! 人間のフリすんの早いじゃん」
「せっかくだしさ、“反省会”しようぜ。人間らしく」
教師が笑いながら後ろを振り向いた。
「おいおい、壊すなよー。バス会社に怒られるぞ」
止めるのではない。むしろ「見てる」側の余裕があった。
誰かが、博物館のパンフレットを丸めて遥の頭を叩く。
「お前さ、“命の大切さ”とかどう思った?」
その声には、明らかに試すような悪意が滲んでいた。
「……そんなの、どうでもいい」
「は? なんだって?」
「人間がやることなんて、どれも一緒だろ」
一瞬、静まり返る。
その次の瞬間、前の席の男子が立ち上がり、遥の顔面を蹴りつけた。
「偉そうに語ってんじゃねぇよ、カス!」
蹴られた拍子に、窓に頭をぶつける。鈍い音が響く。
痛みより、笑い声のほうが響いた。
「見た? 先生、今、名言出たんすよ。“どれも一緒だろ”だって!」
「平和資料館で何学んだの? “暴力は連鎖する”とか?」
「それを自分で証明してんじゃん、すげぇな!」
教師まで笑っていた。
「お前ら、ちゃんと記録しとけよ。後で“感想文”書くんだからな」
その“感想文”が、翌日どんな意味で使われるのか、全員が知っていた。
遥は、拳を握りしめたまま黙っていた。
唇の端から血が垂れ、顎を伝う。
誰かがそれをティッシュで拭くふりをして、さらに押しつけた。
「ほら、“命の大切さ”ってこういうことだろ?」
紙が裂け、血が滲む。
笑い声が止まらない。
車窓の外では、観光地の灯りが遠くに揺れていた。
その光の中に、「普通の修学旅行」が確かに存在していた。
けれど、遥の席だけが、夜の底に沈んでいた。
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