テラーノベル
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放課後の教室は、エアコンの切れた空気がゆっくり沈んでいた。
窓は開いているのに、風はほとんど入らない。
相談スペースに座った生徒は、背筋を伸ばしたまま、鞄を足元に揃えて置いた。
姿勢が、授業中のまま戻っていない。
「……怒られたこと、ないんです」
遥は視線を上げない。続きを待つ。
「提出物も出してるし、
遅刻もしないし、
問題も起こしてない」
生徒は、一つずつ確認するみたいに言った。
「でも、ずっと緊張してます」
その言葉が、机の上で止まる。
「誰かに見られてる感じがして。
何も言われてないのに、
“次、失敗したら”って」
遥は、机の端に置いたペンを動かした。
「理由がない緊張は、
一番ほどけにくい」
生徒は、少し驚いたように顔を上げる。
「……ありますか。
ほどける方法」
「まず、緊張してるって認める」
生徒は、戸惑う。
「でも、何も起きてないのに?」
「起きてないから、気づかれにくい」
遥の声は低い。
「怒られない。
注意もされない。
だから、“正解を続けなきゃ”になる」
生徒は、唇を噛む。
「正解、続けてるつもりなんです」
「つもり、だな」
遥は続ける。
「正解ってのは、終わりがない」
教室の外で、ドアの閉まる音がした。
「誰にも怒られないのに、
失敗が怖いのはな」
遥は言葉を選ぶ。
「“一回も外したことがない”状態が、
続いてるからだ」
生徒の肩が、わずかに揺れる。
「外したら、全部終わる気がして」
「終わらない」
遥は即答しない。
「……こともある」
生徒は、苦笑した。
「はっきり言わないんですね」
「はっきり言えない」
遥は認める。
「でも、
一回外しただけで壊れる評価は、
元から薄い」
生徒は、机を見つめる。
「私、
誰かに期待されてるんですか」
「されてる」
遥は短く言う。
「“問題を起こさない人”として」
生徒の眉が、少し寄る。
「それ、いいことじゃないですか」
「役に立つ」
遥は続ける。
「でも、楽じゃない」
沈黙が落ちる。
「怒られない代わりに、
許される経験が少ない」
遥の言葉が、ゆっくり届く。
「失敗しても大丈夫だった、
って記憶がない」
生徒は、目を伏せた。
「……確かに」
「緊張はな、
未来の罰を先に受けてる状態だ」
生徒の指先が、きゅっと握られる。
「じゃあ、どうすれば」
「一個、雑にする」
生徒は顔を上げる。
「また、雑、ですか」
「今回は、出来でいい」
遥は淡々と。
「完璧じゃなくて、出来」
生徒は、少し考える。
「七十点とか?」
「上出来だ」
遥は頷く。
「七十点を、何回か通す」
「……怒られませんか」
「怒られる時もある」
遥は否定しない。
「でも、終わらない」
生徒は、ゆっくり息を吐く。
「私、
怒られない代わりに、
ずっと気を張ってました」
「気を張り続けるのは、
才能じゃない」
遥の声は、静かだった。
「消耗だ」
生徒は、少しだけ肩を落とす。
「……今日、
一個だけ、
力抜いてみます」
「それでいい」
椅子が、音を立てずに引かれる。
生徒は立ち上がり、
背筋を伸ばしたまま、
最後に一度だけ深呼吸した。
扉が閉まり、
教室に静けさが戻る。
遥は、机の上の影を見る。
「……怒られないってのは、
安全じゃない」
ぽつりと落とす。
「慣れないと、
ずっと緊張する」
外の空は、すっかり暗い。
遥はまた、次の足音を待った。
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