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その日の午後、店の奥の帳場には、花より重い空気が沈んでいた。
澄江が古い机の上に帳簿を並べ、その隣でオブラスが電卓を置く。窓から差す光はやわらかいのに、数字だけがやけに冷たい。ハヤは伝票をまとめたまま、座る場所を決めかねて立っていた。
「立ったままだと逃げ道に見える」
と、オブラスが言った。
「逃げません」
「なら座って」
感情の起伏が見えにくい声だったが、逃がさない種類のやさしさはある。ハヤはしぶしぶ丸椅子に腰を下ろした。向かいではノイシュタットが、まるで劇場の開幕を待つような顔で腕を組んでいる。腹が立つ。
オブラスは紙を一枚、机の中央へ滑らせた。
「過去三か月の売上推移。供花と法事の固定注文で持っているけど、日常の来店が落ちている。祭り飾りの臨時収入を入れても、秋口で運転資金が厳しい」
「厳しいって、どのくらい」
「かなり具体的に厳しい」
その言い方で、かえって数字の重さが増した。
花屋「花は散らない」は、小さい店だ。切り花、供花、祝い花、祭り飾り。どれも必要な仕事なのに、近ごろは町の人が一輪を買う余裕すら減っている。観光客も前より少ない。空き店舗が増えた朝風通りは、夕方になるとシャッターの音ばかりが響く。
ハヤは帳簿の端を見つめた。自分は裏方として動けばよかった。伝票整理と水揚げと配達準備ができれば、それで店の役には立っていると思ってきた。けれど、数字はそんな慰め方をしてくれない。
「静かに畳むなら、まだ選べる時期ではある」
オブラスが淡々と言った。
胸のどこかで、ひどく嫌な形の納得が生まれかけた。静かに畳む。誰にも迷惑をかけず、大騒ぎもせず、惜しまれもせず、ただ終わる。自分にはそのほうが似合っている気もした。
そのとき、ノイシュタットが口を開いた。
「静かな閉店は上品だが、美しくはない」
「……は?」
ハヤが顔を上げると、彼は本気の顔をしていた。
「売れなくなった、だから閉める。それは説明としては正しい。でも、この店には人が来ていた記憶がある。誰かが名前も言えずに花を買って、誰かが言えなかったことを花に託した。その蓄積を、静かだからという理由で消すのは、あまりに雑だ」
「雑?」
「そう。町に対しても、店に対しても」
言葉はもっともらしい。だが、もっともらしいから余計に腹が立った。
「外から帰ってきた人に、何が分かるんですか」
店内が静まった。
「毎日ここで伝票を書いてるのは私です。売れ残った花を捨てるのも、仕入れを減らすのも、供花の時間に遅れないよう走るのも私です。きれいな言い方で残るか残らないか決められたら困ります」
ノイシュタットはすぐに返さなかった。その沈黙に、かえって腹が立つ。
オブラスが静かに視線を落とした。澄江は何も言わず、ただ湯のみを一つ、ハヤの前へ押した。
やっとノイシュタットが言った。
「……その通りだ。今のは、余計だった」
「余計どころじゃないです」
「うん。嫌われても仕方ない」
認められると、怒りの置き場所が少しずれる。ハヤは湯のみを掴み、熱さに指先を縮めた。
オブラスが別の紙を出した。
「ただ、閉める以外の可能性がゼロとも言ってない」
「何ですか」
「小さくでも来店理由を増やすこと。固定客を戻すこと。商店街の回遊を作ること。三か月で手応えを積めれば、秋は越えられる」
「そんな都合よく」
「都合はよくない。だから数字で詰める」
ノイシュタットがそこで、懲りずに目を光らせた。
「ほら。扉はまだ閉まっていない」
ハヤはうんざりして、机の下でポケットの鍵を握った。真鍮の冷たさが指に触れる。
閉める話をしている部屋で、まだ開いていない扉のことを考えている。
それが嫌で、それでもどこか救いでもあった。