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黒瀬が、自分の過去に触れたのは、何気ない沈黙のあとだった。
「久我さん」
「……何だ」
「七年前。
大学生暴行致死事件」
久我の手が、止まった。
黒瀬は、机の上の傷をなぞるように指を動かす。
「担当刑事の一人が、
“供述の整合性”を理由に
証拠の優先順位を変えた」
久我の胸に、鈍い痛みが走る。
「……誰から聞いた」
「誰からでもありません」
黒瀬は顔を上げ、久我を見る。
「資料の癖です」
「癖?」
「消された行が、 消し切れていない」
久我は、喉が鳴るのを抑えた。
「あの事件は……」
「冤罪でした」
黒瀬は、淡々と言い切った。
「あなたは、
最後まで異議を唱えた」
「……」
「でも、通らなかった」
久我は、目を伏せた。
忘れたふりをしていた。
忘れた“ことにしていた”。
「その結果、
一人の人間が、
“疑われたまま”人生を終えた」
久我の呼吸が、浅くなる。
「……なぜ、今それを」
「あなたが、 同じ線の前に立っているからです」
黒瀬の声は、静かだった。
「今回は、 あなたが線を引ける」
「……脅しか」
「違います」
黒瀬は首を振る。
「逆転です」
「何が」
「立場が」
久我は、黒瀬を睨んだ。
「君は、
私の過去を武器にする気か」
「使いません」
即答だった。
「ただ、
あなたが“何を恐れているか”を確認しただけです」
久我は、苦く笑った。
「……君は、本当に厄介だな」
「そう言われるのは、嫌いではありません」
黒瀬は、ほんのわずかに口角を上げた。
「あなたは、過去に縛られている」
「それが、正義を歪めると言いたいのか」
「いいえ」
黒瀬は、視線を外さず言う。
「それが、あなたを“選ばせる”」
久我は、息を吐いた。
「……私が、過去を守るために 君を切ると?」
「その可能性は、もう消えました」
黒瀬は、静かに言った。
「あなたは、前回と同じ選択を “しなかった”」
久我は、はっとする。
「だから、私はここにいます」
黒瀬は続ける。
「あなたの保身のためではなく、あなたの“選択”の結果として」
久我は、椅子にもたれた。
「……君は、私が壊れないことを前提に動いている」
「ええ」
「それは、危険だ」
「知っています」
黒瀬は、ゆっくりと言った。
「でも、それでもあなたは、壊れない」
久我は、視線を逸らした。
「……私は、正しい人間じゃない」
「だから、信じられる」
黒瀬は、迷いなく答えた。
沈黙が落ちる。
久我は、その重さに耐えながら思う。
この男は、
自分を救うために
過去を持ち出したのではない。
――自分に、
“もう逃げ場はない”と
静かに示しただけだ。
「……今日は、終わりだ」
「はい」
黒瀬は立ち上がる。
連れて行かれる直前、
振り返って言った。
「久我さん」
「何だ」
「過去は、
あなたを縛るためにあるんじゃない」
黒瀬は、低く続ける。
「次の選択を、間違えないためにあります」
ドアが閉まる。
久我は、一人残され、深く息を吐いた。
――逆転したのは、 立場ではない。
過去に追われていた自分が、
初めて過去を直視したこと。
その事実だけが、胸の奥で、静かに、確かに、音を立てていた。