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取り調べ室のドアが閉まった瞬間、久我は微かな違和感を覚えた。
いつもと同じ音。
いつもと同じ、金属の乾いた響き。
だが今日は、
外から閉められたという感覚が、
どこか希薄だった。
椅子に腰を下ろし、ファイルを開く。
黒瀬の供述は、相変わらず整いすぎている。
嘘はない。
だが、すべてが真実でもない。
その“余白”を、久我は読む立場にあるはずだった。
――あるはず、だった。
「……来るぞ」
黒瀬が入室する前に、久我は小さく呟いた。
自分が、彼の動線を予測していることに気づき、眉をひそめる。
ドアが開く。
黒瀬が現れる。
手錠の音。
椅子を引く音。
それらすべてが、久我の神経に、必要以上に鮮明に触れた。
「お変わりありませんか」
黒瀬が、淡々と尋ねる。
「……その台詞は、こちらのものだ」
「そうですか」
黒瀬は軽く頷き、視線を久我に合わせた。
その瞬間、
久我ははっきりと理解した。
見られている。
犯人としてではない。
取調対象としてでもない。
――選択する人間として。
「今日は、あなたの質問が少ないですね」
「……観察している」
「私を?」
「自分をだ」
久我は、言葉を選ばずに言った。
黒瀬は、わずかに目を細める。
「それは、いい兆候だと思います」
「なぜだ」
「檻の外にいる人は、自分を観察しません」
久我のペンが止まる。
「……どういう意味だ」
「外にいる人間は、中を見下ろすだけです」
黒瀬は、机の縁に指先を置いた。
「でもあなたは、中から外を見ようとしている」
「私は、取調官だ」
「ええ」
黒瀬は、静かに続ける。
「だからこそ、気づいてしまった」
沈黙が落ちる。
久我は、喉の奥が乾くのを感じた。
「……君は、何を言わせたい」
「何も」
黒瀬は首を振る。
「気づいた事実を、
否定してほしくないだけです」
久我は、椅子にもたれた。
「……私は、君を閉じ込めている」
「いいえ」
黒瀬は、即座に否定する。
「この部屋にいるのは、あなたも同じです」
「私は、出られる」
「物理的には」
黒瀬は、視線を逸らさない。
「でも、判断からは?」
久我の胸に、鈍い衝撃が走る。
「あなたは今、
どちらの立場で
ここに座っていますか」
「……」
「取調官ですか」
黒瀬は、一拍置く。
「それとも、
“選ばされる人間”ですか」
久我は、答えなかった。
答えられなかった。
ペンを握る指に、力が入る。
報告書。
供述。
上層部の意向。
それらが、
全て同じ方向を向いていることを、
久我は知っている。
――黒瀬を犯人にする。
それが、最も安全で、
最も“正しい”結論。
「……君は、自分が何を言っているか分かっているのか」
「ええ」
黒瀬は、低く答えた。
「あなたがここにいる限り、私は、あなたを試す側に回れる」
「……」
「それが、あなたの檻です」
久我は、目を閉じた。
過去の事件。
書き換えなかった報告書。
見なかったことにした違和感。
それらが、
一つの檻として、
今、形を成している。
「……私は、ここから出られる」
「出られます」
黒瀬は、穏やかに言った。
「ただし」
視線が、久我を射抜く。
「あなたが、“何も見なかったことにする”なら」
久我は、ゆっくりと目を開けた。
「……君は、残酷だな」
「知っています」
黒瀬は、淡く笑った。
「でも、
あなたはそれを
“残酷だ”と感じる側だ」
それが、 救いだとでも言うように。
取り調べ室の時計が、小さく音を立てる。
久我は、その音を聞きながら思った。
――閉じ込められているのは、
この男ではない。
この部屋でもない。
選ばなければならない自分自身だ。
「……今日は、ここまでだ」
「はい」
黒瀬は立ち上がる。
連行される直前、振り返って言った。
「久我さん」
「何だ」
「檻に気づいた人間は、
もう以前には戻れません」
ドアが閉まる。
久我は、一人残された取り調べ室で、しばらく動けずにいた。
――外に出られるはずなのに、
足元に、見えない鉄格子がある。
その感覚だけが、消えずに残っていた。