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きつね
3,026
夜の空気が、一段階下がっていた。
玄関を開けた瞬間に分かる冷え方で、外の匂いも少し硬い。
真白は靴を脱ぎながら、息を小さく吐いた。
コートを脱いで、マフラーを外して、それでも首元がまだ寒い。
リビングの奥から、かすかな水の音がする。
アレクシスが加湿器のタンクに水を入れている音だった。
「乾燥してる?」
「うん。今日は特に」
蛇口を閉める音。
続いて、加湿器のスイッチが入る低い作動音。
真白はそのままソファに座り込み、背もたれに頭を預けた。
部屋は暖かいはずなのに、体の芯だけが遅れてついてくる感じ。
「外、冷えたね」
「顔が痛いタイプの寒さだった」
「わかる」
短いやり取り。
でも、同じ寒さを通ってきたことが分かるだけで、安心する。
アレクシスはキッチンに立ち、マグカップを二つ出した。
電気ケトルのスイッチを入れると、すぐに低い音が鳴り始める。
「なに飲む?」
「白湯でいい……」
「今日は弱ってる?」
「うん。たぶん、年末モード」
「まだ早くない?」
「気分が先走るタイプ」
アレクシスは小さく笑った。
湯気が立ち上ると、真白は自然とカップを両手で包む。
その仕草が、冬の合図みたいで、見ているだけで部屋が落ち着く。
「今日さ」
真白はカップを見つめたまま言う。
「街、ちょっとだけピリピリしてなかった?」
「してた」
即答だった。
「理由は分からないけど、急いでる感じ」
「みんな、何かに追いつこうとしてる」
「……だよね」
真白は一口飲んで、ゆっくり息を吐いた。
湯気と一緒に、肩の力も抜ける。
「ここは静かでいい」
「そうなるようにしてるから」
「うん。分かってる」
アレクシスは真白の向かいに座る。
ソファの距離はいつも通り。
でも、今日は少し近い。
「寒い?」
「今は、平気」
「さっきは?」
「さっきは、ちょっと」
アレクシスは立ち上がり、何も言わずにブランケットを持ってくる。
真白の肩にかける動作は、もう確認作業みたいなものだ。
「……ありがとう」
声が少し小さい。
「乾燥すると、気持ちも割れやすくなるから」
「なにそれ」
「俺の持論」
真白は笑ったあと、少し真面目な顔になる。
「でも、分かる。今日は特に」
加湿器の音が、一定のリズムで部屋を満たす。
外の冷えとは別の、やわらかい音。
「この音、好き」
「うるさくない?」
「逆。安心する」
真白はブランケットを引き寄せ、深く座り直した。
「なんかさ、今日はもう十分じゃない?」
「なにが?」
「一日」
アレクシスは少し考えてから、うなずいた。
「十分だね」
それ以上、付け足す必要はなかった。
外は冷たくて、乾いていて、急いでいる。
でも、この部屋は違う。
音を足して、温度を足して、
静かに夜を受け取るだけ。
真白は目を閉じ、
アレクシスはその横で、カップの温度を確かめた。
それだけの夜が、ちゃんと今に合っていた。
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