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夜の空気が、一段階下がっていた。
玄関を開けた瞬間に分かる冷え方で、外の匂いも少し硬い。
真白は靴を脱ぎながら、息を小さく吐いた。
コートを脱いで、マフラーを外して、それでも首元がまだ寒い。
リビングの奥から、かすかな水の音がする。
アレクシスが加湿器のタンクに水を入れている音だった。
「乾燥してる?」
「うん。今日は特に」
蛇口を閉める音。
続いて、加湿器のスイッチが入る低い作動音。
真白はそのままソファに座り込み、背もたれに頭を預けた。
部屋は暖かいはずなのに、体の芯だけが遅れてついてくる感じ。
「外、冷えたね」
「顔が痛いタイプの寒さだった」
「わかる」
短いやり取り。
でも、同じ寒さを通ってきたことが分かるだけで、安心する。
アレクシスはキッチンに立ち、マグカップを二つ出した。
電気ケトルのスイッチを入れると、すぐに低い音が鳴り始める。
「なに飲む?」
「白湯でいい……」
「今日は弱ってる?」
「うん。たぶん、年末モード」
「まだ早くない?」
「気分が先走るタイプ」
アレクシスは小さく笑った。
湯気が立ち上ると、真白は自然とカップを両手で包む。
その仕草が、冬の合図みたいで、見ているだけで部屋が落ち着く。
「今日さ」
真白はカップを見つめたまま言う。
「街、ちょっとだけピリピリしてなかった?」
「してた」
即答だった。
「理由は分からないけど、急いでる感じ」
「みんな、何かに追いつこうとしてる」
「……だよね」
真白は一口飲んで、ゆっくり息を吐いた。
湯気と一緒に、肩の力も抜ける。
「ここは静かでいい」
「そうなるようにしてるから」
「うん。分かってる」
アレクシスは真白の向かいに座る。
ソファの距離はいつも通り。
でも、今日は少し近い。
「寒い?」
「今は、平気」
「さっきは?」
「さっきは、ちょっと」
アレクシスは立ち上がり、何も言わずにブランケットを持ってくる。
真白の肩にかける動作は、もう確認作業みたいなものだ。
「……ありがとう」
声が少し小さい。
「乾燥すると、気持ちも割れやすくなるから」
「なにそれ」
「俺の持論」
真白は笑ったあと、少し真面目な顔になる。
「でも、分かる。今日は特に」
加湿器の音が、一定のリズムで部屋を満たす。
外の冷えとは別の、やわらかい音。
「この音、好き」
「うるさくない?」
「逆。安心する」
真白はブランケットを引き寄せ、深く座り直した。
「なんかさ、今日はもう十分じゃない?」
「なにが?」
「一日」
アレクシスは少し考えてから、うなずいた。
「十分だね」
それ以上、付け足す必要はなかった。
外は冷たくて、乾いていて、急いでいる。
でも、この部屋は違う。
音を足して、温度を足して、
静かに夜を受け取るだけ。
真白は目を閉じ、
アレクシスはその横で、カップの温度を確かめた。
それだけの夜が、ちゃんと今に合っていた。