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その日工房での仕事を終えた真子は、スーパーで食材を買ってからアパートへ戻った。
部屋の電気はついている。
真子がインターフォンを押す前に、すぐにドアが開いた。
「お帰り真子」
「ただいま」
拓は机に向かって仕事をしていたようだ。ノートパソコンには相変わらず難しそうな図面が表示されている。
真子は買ってきた食材を袋から出しながら言った。
「今日ね、美桜とちゃんと話し合ってきた」
そこで拓がキーボードから手を離し、真子の方を見る。
「うん…で、なんだって?」
「私の気持ちをわかってくれたわ」
「真子の気持ち?」
「うん。拓と一緒に神奈川に帰りたいっていう気持ち」
そこで拓は信じられないといった表情をする。
「え? でも工房は? 染織は? 続けたいんだろう?」
「染織ならどこでだって続けられるわ」
「でも…自然豊かな方がいいって……」
「神奈川にだって山や森はあるわ」
「それはそうだけれど」
「私はね、拓の傍で染織がやりたいの。拓がいない場所ではやりたくないの」
「だから俺がこっちに来るって……」
その時真子は拓の傍まで歩いて行った。そして拓の腿の上に座ると拓の首に両手を回す。
「私ね、もう決めたの。二度と拓を一人にはしないって…」
真子はとても穏やかな表情で拓を見つめると、そっと拓の唇を塞いだ。
そして9月になった。
真子は今、羽田空港行の飛行機の中にいた。
窓から遠ざかって行く北海道の大地を見ながら、真子の瞳は潤んでいた。
工房は先週閉鎖した。
工房の賃貸契約がちょうど8月末までだったので、美桜と話し合った結果きりのいい所で閉鎖する事にした。
通い続けてくれた生徒達は残念がったが、真子と美桜の事情を理解してくれて最後は二人の送別会まで開いてくれた。
美桜は、
「私は一時修行の旅に出ますが、それが終わったらまた工房を再開しますので、それまでしばしお時間を下さい」
と挨拶をすると、生徒達から大きな拍手が沸き起こった。
「待ってるわよー」
「体験型ミュージアムの方には既に申し込みしましたー」
「羊毛の全てを極めてきて下さーい!」
生徒達からは温かい声が響く。
また真子に対しては、
「結婚というおめでたい事ならなんにも言えないわー」
「ミュージアムのイベントに来てくれるならその時を楽しみにしています!」
「先生、染織コンテスト頑張って下さいね! 応援しています」
そんなあたたかい言葉を送ってくれた。
真子は嬉しくて思わずじーんと涙ぐんでしまった。
工房閉鎖の翌日には、瑠璃子が幹事となり真子の送別会を開いてくれた。
拓はもうすでに神奈川へ戻っていたので、岸本医師と江藤夫妻、それに美桜と美桜の恋人の智彦も参加してくれた。
瑠璃子は真子と初めて会ったのが、真子が高校生3年生の時だったので感無量といった感じで涙ぐんでいた。
しかし、瑠璃子の実家は東京なので、東京へ里帰りした際は会いましょうと真子が言うと嬉しそうな笑顔に変わる。
ミュージアムの工事はすでに始まっている。完成は来年の5月の予定だ。
そしてミュージアムは7月にオープンする。
真子は7月からの一ヶ月間、美桜の家に居候してミュージアムでのイベントに参加する予定でいた。
北の大地に別れを告げた真子は、視線を窓から前に向ける。
そしてこれから始まる新しい生活に胸を躍らせた。
飛行機が羽田空港へ到着すると、真子は荷物を持って飛行機を降りた。
そして到着ロビーへと向かう。
出口を出ると、そこには拓が笑顔で立っていた。
「真子、お帰り!」
「ただいま拓!」
真子は嬉しくて拓に抱き着く。
「ハハッ、会わない間にすっかり甘えん坊か?」
「だって寂しかったんだもん」
「それは俺だって同じだよ」
拓はそう言うと真子をギュッと抱き締める。
そんな二人の仲睦まじい様子を、通り過ぎる人々が微笑んで見ていた。
真子の左手の薬指には、拓が贈ったダイヤのリングがキラキラと輝いている。
それから空港の駐車場へ行き拓の車に乗った。
真子はこの日初めて拓の車に乗った。
以前拓が岩見沢のレンターカーで借りた車と同じ車種だったが、車内にはサーフボードが積まれている。
そこには、二人が会えなかった8年間の拓の暮らしぶりが垣間見えるような気がした。
この日二人は真子の実家へ向かった。
今日はまず真子の両親に結婚の挨拶をしに行く。
真子の両親から許可を得たら、それから新居を探して二人で住む予定だ。
それまで真子は実家で暮らす事になっていた。
この日の為に拓はスーツを着ていた。
9月の北海道は時折秋の気配が漂っていたが、関東はまだ猛暑だ。
それでも拓はこの日の為に、きちんとした格好をしてきてくれた。
真子はそれがなんだか嬉しかった。
真子の実家に着くと、二人は玄関へ向かう。
玄関までのアプローチを歩きながら、拓は遠い昔の記憶を思い返していた。
真子を訪ねてきたあの日、この家は既にもぬけの殻だった。
隣りの婦人に一家が引っ越したと聞き愕然としたのを今でも覚えている。
あんな思いはもう二度としたくはない…そう強く思う。
真子がドアを開けて叫んだ。
「ただいまー」
すると奥から真子の両親が出て来た。
二人ともニコニコしていた。
「お帰り真子。拓君もようこそ! さ、どうぞ上がって」
母の英子は満面の笑みで言う。
すると拓は背筋をビシッと伸ばして挨拶をする。
「長谷川拓と申します。よろしくお願いいたします」
そう言って深々と頭を下げた。
そこで父の保が目尻を下げながら言った。
「拓君、堅苦しい事はナシで行きましょう。さ、上がって上がって」
保が優しく言ったので、拓はホッとした様子でスリッパを履いた。
そこで真子が言う。
「うちのお父さん全然怖くないから大丈夫だよ」
「みたいだな。良かった、ホッとしたよ」
そんな拓の様子を見て真子はクスクスと笑った。
保は既にソファーに座っていた。その向かいに、拓と真子が座る。
そして英子がお茶を持ってきた。
お茶をテーブルの上に置いてから、英子も保の隣に座る。
一瞬、緊張した空気が流れる。
そこで拓が用意していた菓子折を英子に渡した後言った。
「今日は真子さんとの結婚の許可をいただきたいと思いお伺いしました。お父さん、お母さん、どうか真子さんと結婚させて下さい。必ず幸せにしますから、どうかお願いいたします」
拓は今まで真子が見た事もないような真剣な表情で言い、深々と頭を下げている。
拓の誠実な態度を見ていた保と英子は、一度目を見合わせて微笑んだ。
そして父の保が言った。
「拓君、君が高校生の頃から真子に好意を持っていてくれたというのは妻から聞いていました。そしてあの時は君に嘘をついてしまった事を本当に申し訳ないと思っています。妻もその事でずっと胸を痛めていました。しかし真子から拓君と岩見沢で再会したと聞いて驚きました。でもそれは偶然ではなく君が真子の元へ行ってくれたんだと聞いて感激しました。本当にありがとう。ふつつかな娘ですが、どうぞ末永くよろしくお願いいたします」
保と英子は同時に拓に向かって頭を下げた。それを見た拓も慌ててお辞儀を返す。
そして、
「必ず大切にします」
と言うと、もう一度深々と頭を下げた。
その後、拓と真子は見つめ合って微笑む。
そんな二人を見つめる英子の瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
コメント
1件
真子ちゃんは岩見沢でもたくさんの人に囲まれて幸せな時間を過ごせて本当に良かったね🥲🌷🌸 高校〜手術を経て工房を開いて拓君の思い出を胸に頑張ってきたもんね🥲 その頑張りを拓君が掬い上げてくれてこれから2人神奈川で共に夫婦として生きていく(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)❣️ 真子ちゃんのご両親も8年以上胸に詰まる思いがあってようやく若い2人の幸せの道を歩いくのに感無量だね(´༎ຶོρ༎ຶོ`)💞 真子ちゃん拓君本当におめでとう🎉