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相談室の椅子は、少しだけ低い。身体を預けると、背もたれがゆっくり受け止めてくれる。その感触だけが、ここに来た証拠みたいだった。
相談者は、しばらく黙っていた。机の端に置かれた紙コップの水に、指先が触れては離れる。話す順番を探しているというより、言葉に輪郭を与える前の、手前で立ち止まっているようだった。
「“大丈夫?”って聞かれるのが、最近しんどい」
ぽつりと落ちた声は、小さくも大きくもない。遥はうなずき、間を詰めずに、ただ聞いている。
「心配してくれてるのはわかる。でも、答えを用意できない。大丈夫じゃない気もするし、大丈夫って言ってしまえば楽になる気もする。でも、どっちも違う」
相談者は視線を下げる。選択肢が二つあるのに、正解がないときの顔だった。
「“大丈夫”って言うと、それ以上踏み込まれない。だから、そこで終わる。でも、終わると、どこか置いていかれた感じが残る。“大丈夫じゃない”って言うと、次に何を話せばいいかわからない。説明できるほど、自分のことを把握してない」
静かな沈黙。遥はメモも取らず、相槌も急がない。相談室の空気が固まらないよう、呼吸の速度だけを合わせる。
「誰かに聞かれた瞬間、採点される気がする。正しく困ってるか、伝え方は合ってるか。変な顔してないか」
相談者は、笑おうとしてやめた。
「たぶん、ちゃんと困ってないと、助けてもらえないって思ってる。なのに、ちゃんと困るって何なのか、わからない」
遥は目線を合わせるでも、外すでもなく、自然な位置に置いたまま言った。
「“大丈夫?”は、質問だけど、答えを急がせる言葉でもある。だから、今は答えなくていい」
相談者の肩が、ほんの少し下がる。
「ここでは、“わからない”で止まっていい。止まる場所がないと、ずっと走らされるから」
しばらくして、相談者は小さく息を吐いた。
「止まっていいって言われると、逆に何か言いたくなる」
遥は、否定も肯定もせず、そこに余白を置く。
「……大丈夫じゃない、って言い切るほどでもない。でも、放っておかれたいわけでもない。その中間で、ずっと揺れてる」
「揺れてる、でいい」
遥の声は低く、穏やかだった。
「揺れてる最中に、“答え”を出そうとしなくていい。揺れてる事実を、ここに置いていけばいい」
相談者は、もう一度水を口に含み、今度はコップを戻した。
「それなら、少し楽かもしれない」
遥はうなずく。
「次に“どう?”って聞かれたら、“揺れてる”って言葉を、頭の中で思い出せばいい。言わなくてもいい。思い出すだけで、答えを用意しなくて済むから」
相談室を出る頃、相談者の歩幅は、入ってきたときよりわずかに遅かった。速くなるためじゃない。止まれる速度を、覚えたからだ。