テラーノベル
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水面は明るいのに、水の中は音が鈍くて、外の声が少し遅れて届く。
そのずれが、妙に不安を増やす。
顔を上げれば普通の授業の風景で、下げれば別の空気があるみたいに、境目だけがはっきりしている。
「二人一組でバタ足なー」
教師の声。遠い。
すぐにペアができていく中で、遅れたところに名前を呼ばれる。
「お前、こっちな」
近づく。選べない。
「持てよ」
ビート板を渡される。
「離すなよ」
軽い調子。意味は分かる。
壁を蹴って進む。腕を伸ばして、板に体重を乗せる。水面は思ったより不安定で、少しでも力が抜けると沈む。
最初の数メートルは普通に進む。後ろで水が跳ねる音。誰かが並走している気配。
そのまま少し進んだところで、板がわずかに揺れる。
一瞬、違和感。
次の瞬間、支えが消える。
板が引かれる。
体が沈む。
口に水が入る。反射で息を吸おうとして、さらに入る。喉が焼けるみたいに痛い。
顔を上げようとして、上から手が来る。軽く、でも確実に押さえられる。
「バタ足やれって」
水の中でくぐもった声がする。
意味が分かるのに、体が追いつかない。
腕を動かそうとすると、また板が遠ざかる。
「離すなって言ったよな?」
さっきと同じ声。
でも今は違う。逃げ場がない。
もう一度、顔を上げる。空気を吸う。咳き込む。
「遅えよ」
すぐ横で笑われる。
そのまま、また押される。
今度は長い。
水の中で目を開ける。ぼやけた青の中に、腕と足が動く影が見える。自分のじゃない。周りのやつらの動き。
上に行こうとして、また押さえられる。強くはないのに、逃げきれない。
息がもたない。
苦しい、というより、焦る。
ここで暴れると余計に沈む。分かっているのに、体が勝手に動く。
やっと手が離れる。顔を上げる。空気を吸う。咳が止まらない。
「大げさ」
笑い。
「ちゃんとやれよ」
板が戻される。
掴む。掴むしかない。
また進む。今度は離されない。
でも、いつ来るか分からない。
水面が不安定に見える。少しの揺れが全部疑わしくなる。
「次、潜水なー」
教師の声。
コースを横切る形で潜る練習。スタート位置に並ぶ。
「何秒いける?」
横から声。
「普通にやればいいだろ」
返す。声が少し掠れている。
「普通って何?」
すぐに返される。
笑いが混じる。
スタート。
息を吸って、潜る。
水の中は静かで、でもさっきの感覚が残っている。上に行くか、下にいるか、その判断が遅れる。
横に気配。
同じタイミングで潜ったやつが、わざと近づいてくる。
腕が当たる。わざと。
進路がずれる。
そのまま、足を軽く掴まれる。
一瞬。
でも、その一瞬でリズムが崩れる。
離そうとしても、水の中で力が入らない。
酸素が減っていくのが分かる。
上に行こうとする。
進路を塞がれる。
完全にではない。避けられる程度に。
でも、その“少しの遅れ”が積み重なる。
苦しい。
さっきよりも、はっきりと。
もう無理だと思って上がる。
水面に出た瞬間、空気が一気に入る。咳き込む。
「もう終わり?」
横で笑われる。
「早くね?」
視線が集まる。
教師は遠い。こっちを見ているかどうかも分からない。
「次、もう一回やれよ」
軽く言われる。
拒否するとどうなるかは、さっき分かったばかり。
「……分かった」
短く返す。
もう一度、並ぶ。
水面がさっきよりも深く見える。
息を吸う。
潜る前に、一瞬だけ考える。
どうやって耐えるか。
どうやって崩れないか。
でも、答えは出ない。
潜る。
水の中で、また同じ気配が近づく。
分かっているのに、避けきれない。
ここでは、泳ぐことよりも、
“どれだけ乱されても崩れないか”の方が試されている。
そしてそれは、
自分一人ではどうにもならない。
コメント
1件
第84話、読み終えました……。水の中の感覚、すごく生々しかったです。特に「音が遅れて届くずれ」が不安を増幅させる表現、本当に巧みで。ビート板を引かれて沈む場面は、息が止まるかと思いました。力では抗えない、逃げ場のない圧迫感がひたひたと迫ってきて、読んでいて苦しかったです。でもその苦しさを描き切るruruhaさんの筆力に、胸が締め付けられました。続きが気になります。