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翌日のシェルターは、昨日より少しだけ明るく見えた。
床の掃き跡が増え、入口の靴跡が重なり、ホレの貼った連絡紙が新しくなっている。誰かが続けると決めるだけで、場所は目に見えて生き返るのだとサベリオは思った。
彼は工具袋を持って入った。
そのつもりだった。裏方として戻る。床のきしみを直し、椅子のぐらつきを止め、照明コードを束ねる。それだけでいい。
なのに、入った瞬間、モルリが拍手した。
「戻ってきた裏方!」
「そこ強調するな」
「分かってる分かってる。今日は押さない。押さないけど、これだけは渡す」
彼女が差し出したのは、台本だった。
サベリオは受け取らない。
「裏の手伝いだって言った」
「うん。だから表も知っといて」
「いらない」
「いる」
今度はモルリではなく、ホレが言った。
「段取り組むのに、誰がどこで何言うか分からないと困るから」
理屈がつくと、断りにくい。
サベリオは渋い顔のまま台本を受け取った。紙の角がまだ新しい。開くと、デシアの字で細かな修正が入っている。余白にはミゲロの書いた寸法、ホレの赤い付箋、ジャスパートの読みにくい走り書きもあった。
もう、誰か一人の紙ではない。
「じゃ、裏方さん」
ヌバーがにやにやしながら椅子へ座る。
「一回だけ合わせるんで、聞いててくださいよ」
読み合わせが始まった。ヌバーの声はやっぱり役ごとに変な癖がつきすぎているし、モルリは感情が先に走って台詞の順番を飛ばす。ミゲロは声が小さすぎ、ハルティナは感情が乗ると早口になる。
サベリオは何も言うつもりがなかった。
なかったのに、第三場の途中で、口が先に動いた。
「そこ、一拍空けた方がいい」
全員が止まる。
「今の台詞の後、すぐ返すと軽くなる。橋の下で一回、雨の音聞いてからの方が……」
言いかけて、サベリオは自分で止まった。
皆の視線が揃っている。
ジャスパートが面倒くさそうに顎を上げた。
「続けろよ。今の、分かる」
ヌバーがその通りにやり直す。短い沈黙のあとに入れた一言が、さっきより胸へ残った。
モルリが笑う。
「ほら、一番言うじゃん」
「段取りの話だ」
「その段取りの話が、客の心の段取りなんだって」
サベリオは眉をしかめ、台本から目を逸らす。だがデシアだけは笑わなかった。真面目な顔で、その直しを自分の台本へ書き込んでいる。
休憩になっても、サベリオは台本を閉じられなかった。
紙をめくる指先が、どこか落ち着かない。自分が立つためではなく、誰かを助けるためなら読めると思っていた。だが読んでいるうちに、台詞の隙間から、自分に向けられているような一文が混ざる。
入口近くで、デシアが水筒の蓋を閉める音がした。
「あなた、裏方として戻ったつもりなんだろうけど」
サベリオは振り向かない。
「この台本、もう裏と表で分けられない」
「分けられる」
「分けられないよ。橋の下の話だから」
デシアの声は静かだった。押しつける強さではない。その代わり、逃げ道だけを少しずつ消してくる。
「あなたの声でしか届かないところがある」
サベリオはようやく顔を上げた。
デシアは正面から見ていた。真っ直ぐというより、ここで視線を外したら、また何かが遅れると知っている人の目だった。
「……またそれ言うのか」
「何回でも言う。だって本当だから」
橋の上を風が渡る。入口の貼り紙がかすかに鳴った。
サベリオは言い返せなかった。
台本を持つ手だけが、少し強く紙を掴む。
その夜、帰る時になっても、彼は台本を置いていかなかった。