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――都内某所、メガバンクのオフィスビル内。
「先輩! 帰りにイタリアンなんてどうですか?」
「いいわね。久しぶりに行きましょうか」
終業後、沙夜はにこやかにそう答えた。
財前沙夜、二十五歳。
彼女は、父が頭取を務める財前中央銀行の秘書室に勤務している。
同じ秘書室の一年後輩・川原梨花に誘われ、二人は夕食を食べて帰ることにした。
馴染みのイタリアンレストランで向かい合った二人は、パスタを注文し、ようやく会話を始める。
「沙夜先輩、今日はワイン飲まないんですか?」
「うん。明日ちょっと大事な用があるから、やめておくわ」
「そうですか……じゃあ、すみません、私だけ」
梨花は運ばれてきたグラスワインを手に取り、嬉しそうに一口飲む。
沙夜が“明日の用事”と言ったのは嘘だった。
実は彼女はすでに妊娠しており、酒類を控えているだけだった。
「それにしても、朝礼での発表には驚きましたよ~。いきなり結婚退職だなんて! お見合いの話、本当だったんですね」
「ええ。もともと、大学を出て三年経ったら結婚するように言われてたから」
「はぁ~、さすが資産家の令嬢! 結婚相手も親に決められちゃうなんて……まるでドラマみたい」
「仕方ないのよ。うちは兄が小さい頃に亡くなって、今はひとりっ子だから……」
「でも、なんか時代にそぐわない感じですよね。それに、三国さんのこと……本当にいいんですか?」
梨花にそう問われ、沙夜は言葉を失った。
梨花が言う三国怜央は、財前中央銀行本店営業部に所属するエリート行員で、歳は34歳。沙夜や梨花とも親しくしている男性だ。
沙夜は密かに怜央が気になっていたが、それ以上を望んだことはない。
自分の立場をわきまえている沙夜は、決して自分から距離を縮めようとはしなかった。
しかし最近、怜央の方から話しかけてくることが増え、もしかして――そんな淡い期待を抱いてしまう瞬間もあった。
返事を待つ梨花に、沙夜は静かに言う。
「三国さんはただの同僚よ。それに行内でも人気者だし、私なんかに構ってる暇なんてないわ」
「そうですか? でも三国さん、絶対沙夜先輩に気があると思うんだけどな~」
「ふふ。気にしてくれてありがとう。でも私は、親が決めた相手と結婚するって決めてるの」
納得のいかない表情を浮かべる梨花を見つめながら、沙夜はグラスの水を一口含み、そっと息を吐いた。
そして、結婚相手のことを思い出す。
沙夜の結婚相手は、西園寺コンツェルンの御曹司・西園寺司、38歳。
司の父は日本屈指の巨大コンツェルンの会長で、エネルギー、インフラ、不動産、さらには宇宙開発にまで手を広げる実業家だ。
そんな大財閥の御曹司と、メガバンク頭取の令嬢。
この結婚は、誰がどう見ても政略結婚だった。
幼いころから「父の選んだ相手と結婚するように」と育てられてきた沙夜は、いつかこの日が来ると覚悟していた。
だから今まで恋らしい恋はしたことはなく、告白されてもやんわり断り、気になる相手ができてもそっと見守るだけだった。
そもそも、資産家の令嬢に軽々しく手を出す者などいない。
――だから沙夜は、恋に恋い焦がれるだけで、現実の恋愛を経験しないまま大人になってしまった。
そのとき、梨花がうっとりとため息をつく。
「でも先輩の結婚相手って、経済界でもかなりやり手の億万長者……ううん、兆万長者ですよね? 羨ましいです! 一生お金に困らないなんて!」
「ふふっ、お金があるって言っても、事業のためのお金だから」
「そんなことないですよ。それに西園寺司といえば、モデルや芸能人との噂も多いし、クールなイケメンってだけじゃなく、頭脳明晰でしょ? そこらへんの甘やかされたぼんぼんとは違って、絶対刺激的な毎日になりそう! いいなあ~」
梨花は両手を組み、夢見るように天井を見上げた。
(刺激的な毎日……か)
たしかにそうかもしれない。
お見合いの日、沙夜もそう感じた。
初めて会った司は、圧倒的な存在感を放っていた。
まず目を奪われたのは、その外見だ。
すらりとした長身に、ほどよくついた筋肉。そして、端正な顔立ちのクールなイケメン。
どこか冷ややかさを帯びた瞳――その視線を向けられた瞬間、沙夜は息を呑み、身動きができなくなった。
洗練された所作、申し分のない気遣い。
世界を飛び回り、数々の事業を成功させてきた男だけが纏える余裕がそこにはあった。
父の右腕として精力的に働いてきた司には、積み重ねてきた実績に裏打ちされた自信が自然と滲み出ている。
沙夜は、これほどまでに“完成された男性”に会ったのは初めてで、衝撃を受けずにはいられなかった。
さらに、司がふとした瞬間に見せる大人の色気――それは男性経験のない沙夜には刺激が強すぎた。
あの瞳で見つめられたら、どんな女性でもあっという間に心を奪われてしまう――
それほどまでに、司は男としての魅力に満ちていた。
結婚したら、愛人の一人や二人は覚悟しておいた方がいいのかもしれない。
沙夜は本気でそう思っている。
そして、嫁候補などいくらでもいるはずの司が、なぜ自分を選んだのか――その理由が分からなかった。
彼にはもっとふさわしい女性がいるのではないか。そう思わずにはいられない。
もちろん、司が沙夜に一目惚れをしたわけではないことも理解している。
合理主義の彼にとって、メガバンク頭取の娘との結婚は、未来のため、会社のための最適解にすぎない。
その事実が、沙夜にはどうしようもなく寂しかった。
そして同時に、司を魅力的だと認めてしまっている自分にも気づいていた。
もし彼が冷徹ではなく、もっと温かみのある男性だったら。
もし普通の男女のように自然に出会えていたなら。
何度そう思っただろう。
だが現実は、ただの政略結婚――その事実が胸に虚しく広がる。
後輩の梨花と別れた帰り道、電車に揺られながら、沙夜は司との見合いの日のことを、静かに思い返した。
コメント
15件
マリコ様連載開始ありがとうございます 一話に続き二話も沙夜ちゃん なんか淋しそうな気がする始まり方で今後の展開が気になります でもマリコ様はきっと沙夜ちゃんを幸せにしてくれると信じて次を読みます
出遅れた😖😖昨日だけ見てなかったのに😂テラーさん通知お疲れなのか来なかったわ😖😖
マリコさん、連載スタート❤️ またしても遅れてしまった。 でもでも、楽しみな展開にワクワクです🤭