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誰もいなくなった校舎。人気のない階段裏で、遥は蓮司に背を向けたまま立っていた。


「逃げないんだ?」


背後から、気楽そうな声。

でも、その“気楽さ”の裏にある支配の濁流を、遥は知っている。


「……逃げても、意味ねぇし」


言った瞬間、自分の声が少しだけ震えていたのに気づく。


蓮司は笑った。


「可愛いじゃん。……怖いんでしょ?」


肩に、すっと指が触れる。


ただそれだけで、背筋がざわつく。


「ほんとはさ、俺とこうしてるとき、全部拒絶してるフリしてるけど──」


耳元で、息がかかる。


「おまえの身体、毎回ちゃんと“反応”してんだよね」


遥は、息を飲んだ。


「……してねぇ」


「嘘つけ。ほら、今も」


指先が、制服の裾から滑り込むように腹を撫でる。

反射的に手を振り払うが、蓮司は気にせず、柔らかく笑う。


「……ねえ、“恥ずかしい”のってさ、気持ちいいからでしょ?」


その言葉が、喉の奥に毒のように沈む。


遥は振り向こうともしなかった。

ただ、唇を噛んで、そこにある“感覚”を否定しようとした。


(違う、違う、違う)


(反応なんか──してねぇ)


でも──身体は、裏切る。


「……“気持ちよくされてる自分”が、いちばん嫌なんでしょ?」


蓮司の声は柔らかく、優しくさえあった。


「それが“本音”だって、俺は知ってるよ」


「……おまえがどれだけ汚れてんのか、ちゃんと見えてるからさ」


遥の足元がぐらついた。


「日下部の前では、そういう顔しないんだろうけどさ……」


蓮司の声が、喉元へと這い寄るように低くなる。


「──あいつ、おまえの“そういう反応”見たら、どんな顔すんのかな?」


遥の拳が震えた。


(言うな)


(それ以上、言ったら)


「“抱かれたい”って、思ってるんでしょ?」


その言葉が落ちた瞬間、遥の中で何かが千切れた。


怒りじゃない。羞恥でもない。


ただ、どうしようもなく、自己嫌悪が濁流になって押し寄せた。


「黙れ……」


声が震える。

叫ぶことも、逃げることもできなかった。


「黙れって言われても、無理じゃん。だって──」


蓮司は遥の前に回り込んで、正面から顔を覗き込んだ。


「“おまえが俺に見せた”じゃん、その顔も、反応も、声も。全部さ」


遥の頬が、引きつる。

感情が皮膚を裂いて出てきそうなほど、張り詰めていた。


「日下部って、“綺麗な人間”だよな」


蓮司が、ぽつりと言った。


「だから、おまえの“汚さ”なんか見せたら──」


「……一瞬で、壊れるかもね。あいつの中のおまえ、全部」


遥の瞳孔が揺れる。


──(そうだ)


(俺が言えない理由は、それだ)


(“知ってる”んだ。全部見せたら、壊れるのは、あいつなんだ)


でも、それでも──


その“あいつ”の手のひらに、指先でも触れたくて仕方がない。


その渇望と自己嫌悪が、皮膚の下でねじれ合う。


「──おまえが望んでるのは、救われることじゃない」


蓮司の囁きが、唇のすぐ近くで響く。


「壊されたいだけなんだろ、遥」


遥の全身が、微かに震えた。


それは恐怖でも怒りでもない。

名前のつかない、深層の衝動だった。


逃げたいのに、逃げられない。


拒絶したいのに、拒絶する資格もない。


救われたいくせに、汚れきっている。


「──壊してやるよ」


蓮司のその言葉に、遥はもう何も返せなかった。


沈黙のなかで、ただ、自分の中のどこかが“何か”を失っていく音が、

ずっと耳の奥で鳴り続けていた。



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