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本開催の三日前、アンネロスの店の奥から、紙と砂糖とバターの匂いがまとめて流れてきた。朝風通りの空気まで焼き色を帯びたようで、通る人がみな一度は店の前で足を止める。
問題は、その匂いの源が、優雅な新作菓子ではなく、祭り参加者用の甘い名札の大量注文だということだった。
「二百八十枚って、紙の数じゃなくて小隊の数よ」
アンネロスが言う。
「三百ではないだけ救いがあります」
オブラスは救いにならないことを落ち着いて返した。
店のテーブルには、裁断前の厚紙、香りを移すための焼き菓子、町内外から届いた参加者名簿、色分け用の細い紐が山になっていた。受付、語り手、補助、搬入、神社側の案内。役割ごとに名札の色も香りの強さも少し変えるという、アンネロスらしい凝り方が、今はきれいに首を絞めている。
「やると決めたのは自分だけどね」
彼女は笑っているが、手の速さがいつもより一段速い。
ハルミネが裁断位置を定規で押さえる。
「紙幅、ここで取れば無駄が減ります」
「助かる」
「代わりに、紐通しは誰かやって」
すぐにエフチキアが手を挙げた。
「私、それ得意です。あと、順番表を作りました」
彼女が広げた紙には、香り付け、乾燥、名入れ、仕分け、梱包の順が細かく書かれていた。誰が何枚触ったか、どこまで終わったか、子どもでも分かるように丸印で進む表だ。
エルドウィンがそれを見てうなずく。
「配送も合わせよう。完成分から、花屋の奥へ先に運ぶ。受付用と舞台裏用は箱を分ける」
「助かります」
ハヤは即答した。完成した名札の置き場まで頭が回っていなかった。
ジョンナは参加者名簿を読み上げ、漢字の揺れや肩書の表記をその場で確認する。ドゥシャンは紐を結ぶ役を任されたが、途中で三回ほど自分の指まで結びそうになり、そのたびアンネロスに叱られた。
「だから、蝶々結びじゃないの。通すだけ」
「蝶々の方がかわいいと思って」
「今いらないのは、かわいさと余計な善意」
店じゅうが笑う。
ハヤは自分の前に積まれた名札へ、一枚ずつ名前を書き込んでいった。筆圧を変えすぎないように、読みやすく、けれど冷たく見えないように。名を載せる紙が、単なる識別札ではなく、その人が今日ここにいる証明になる。そう思うと、書く手が自然に丁寧になった。
ノイシュタットは完成箱へ貼る札を作りながら言う。
「見事だ。個人技がようやく群れになった」
「群れって言い方、どうなんですか」
「失礼。楽団だ」
「もっと気取った」
夕方までに、名札の山は半分以下になっていた。誰か一人では到底終わらない量が、手と手のあいだを流れて減っていく。
ハヤはふと思った。
成り上がるというのは、一人だけ高い場所へ行くことではない。
こんなふうに、誰かの苦しい量を、自分の手元へ少しずつ引き受けられる形になることかもしれない。
最後の束が箱へ収まった時、店の中には紙と菓子と花の匂いが混じっていた。甘い名札は、名前を覚えてもらうためだけではない。ここで働く人間が、それぞれ違う名で立っていることを、町中へ渡すための紙だった。