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八月に入って最初の土曜日、朝風通りには、夏休みらしい浮ついた声が戻り始めていた。
とはいえ、人通りが急に増えたわけではない。石畳の坂を上ってくる観光客はまばらで、立ち止まる人より、通り過ぎる人のほうが多い。だからこそ、今日の試みは目立った。
花屋「花は散らない」の店先に、ノイシュタットが立っていたのである。
白いシャツの襟はやけに整い、花束を持つ角度まで気取っている。小さな黒板には、ハヤの字で「一輪包みあります」とだけ書いてあるのに、本人の口から出るのはそれではなかった。
「ようこそ、朝風通りの入口へ。言葉にしそびれた気持ちを、花に変える午後です」
通り過ぎかけた親子が、一瞬だけこちらを見て、すぐ歩き出す。
「本日限定、心の余白に挿す一輪を」
今度は若い二人組が、耐えきれなかったように笑いながら通り過ぎた。
店の奥で様子を見ていたハヤは、とうとう額を押さえた。
「引いてる……」
エフチキアが困ったように笑う。
「ちょっときれいすぎるかも」
「ちょっとじゃないです」
ハルミネも布を抱えたまま、そっと横を向いた。笑うのをこらえている。
ノイシュタットは懲りずに続けた。
「花は一輪でも、物語は複数形です」
「だめだ」
ハヤが呟いた瞬間、店先に乾いた声が飛んだ。
「気取る前に食べさせなさい」
アンネロスだった。焼き菓子の籠を片腕に抱え、店の前へずかずか入り込んでくる。籠の中には、小さな丸いクッキーと、花の形に焼いた薄いサブレがきれいに並んでいた。甘い香りが夏の空気へすっと広がる。
「花だけ見せて、言葉だけ聞かせて、足を止める人ばかりじゃないよ。お腹が空いてる人もいるんだから」
「それはその通りだけど、僕の口上にも思想は」
「思想は後。先に匂い」
アンネロスはそう言って、黒板の横へ小さな札を置いた。
『花一輪と焼き菓子一つ。ちいさなおみやげ』
それだけだった。だが、通りを歩いていた子どもが香りにつられて足を止め、その母親が値段を見て「それなら」と近づいてくる。最初の一組が買うと、次の一組も続いた。花だけだと照れてしまう人も、焼き菓子が一緒だと手を出しやすいらしい。
エフチキアが会計をしながら、ぱっと笑顔を向ける。
「お見舞いにも、お礼にも、けんかのあとにも使えますよ」
「けんかのあと?」
「はい。甘いものがあると、少し話しやすいですから」
その言葉で、年配の男性が照れくさそうにサブレ付きの一輪包みを二つ選んだ。ハヤが包みながら目を上げると、男は小さな声で言った。
「家内と、娘に」
「ありがとうございます」
その声を出したとき、自分の口調が少し柔らかくなっていることにハヤは気づいた。
店の前の空気が、さっきまでと違う。気の利いた文句より先に、花と焼き菓子の匂いが人を引き寄せる。そこへ、エフチキアの気安い一言や、ハヤの控えめな説明が続くと、会話が生まれた。
ノイシュタットは腕を組んだまま、その流れを見ていた。
「なるほど。僕は入口として長すぎた」
「長いですし、きれいすぎます」
ハヤが包み紙を折りながら言う。
「もっと短く、もっと食べ物寄りに」
アンネロスが即座に足す。
「広告屋ってのは、たまに自分の声がうまいと勘違いするんだよ」
「痛い。だが有益だ」
昼を過ぎるころには、一輪包みと焼き菓子の組み合わせは予想より早く減っていた。最後の一つが売れたとき、エフチキアが「あっ」と声を上げ、ハルミネが拍手し、アンネロスは空になった籠を軽く持ち上げて見せた。
「ほらね。気取る前に食べさせる」
ノイシュタットは悔しそうに、しかし少し嬉しそうにも見えた。
「今日の敗因は明白だ。僕に足りなかったのは、砂糖だ」
「あと長さです」
ハヤが言うと、店の中に小さな笑いが広がった。
閉店後、帳場で売上を見たオブラスが、紙へ静かに数字を書きつける。
「大当たりじゃない。でも、手応えとしては十分」
その一言に、店の奥の空気が少し明るくなった。
ハヤは売れた一輪包みの控えを見下ろした。花だけでは届かなかった人へ、菓子の甘さが橋をかけた。町の人が、またこの店の前で立ち止まった。
大きな何かではない。
けれど確かに、今日は店の前で、足が止まった。
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