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その日の放課後、相談室に入ってきた生徒は、扉を閉める前からもうくたびれた気配をまとっていた。深く息を飲み込み、机の前に立つ遥をちらりと見たあと、視線を落とす。
座っていい、と遥が小さく手で示すと、生徒は緊張したように椅子へ腰を下ろした。
「……その、さ」
声は擦れていた。
「“優しいよね”って、よく言われるんだ。俺……いや、別に全然そんなつもりないのに」
遥は何も挟まない。ただ、その生徒がしゃべれる速度に合わせるように、静かに頷いた。
「優しいって言われると、なんか“そうしなきゃいけない”みたいになる。嫌なことされても、怒っちゃいけない気がするし。断ると雰囲気悪くなるからって我慢して……気づいたら全部押しつけられててさ」
生徒は俯いたまま指先を握りしめる。机の縁に影が揺れた。
「優しいって……褒め言葉のはずなのに、だんだん重くなるんだよ。“優しい人”じゃなくなったら、嫌われる気がする。だから、やめたいのに……やめられない」
遥は、椅子の背にもたれたまま、生徒の変化を邪魔しないように呼吸を浅く整えた。
代わりに何かを言うべき場面と、ただそばにいるだけでいい場面の境界を、彼はよく知っている。
「……俺、ほんとは優しくなんかないんだと思う。怒りたいときもあるし、断りたい。人のために動くより、放っておいてほしいときのほうが多い。なのに、そう思う自分がさ……最低みたいで」
言葉が止まる。止まったところに、沈黙という名の痛みが落ちた。
そこで遥はようやく、視線を生徒へ向けた。
少しだけ、呼び戻すように。
「“優しいって言われるのがしんどい”って、来るやつ、けっこういる」
それは慰めでも共感でもない。事実として穏やかに置かれた一言だった。
「無理してんの、周りは案外気づかない。気づかないまま、“やってくれる人”として扱う。……でもさ」
遥は目をそらさずに続ける。
「優しいって、性格じゃなくて“役割”になるときがある。役割はしんどい。持たされるもんだから」
生徒の呼吸が小さく揺れた。
怒られもせず、持ち上げられもせず、ただ静かに事実を示されるその距離が、彼には少し救いになったらしい。
「優しくあるかどうかって、自分で決めていいんだよ。毎回じゃなくていいし、誰にでもじゃなくていい」
遥の声には、押しつけがましさも、寄り添う温度もない。ただ淡々としている。それなのに、不思議と耳に落ちる。
「“優しいね”って言うやつは、たいていその裏で、誰かの負担を見てない。優しさってのは、出したら減るんだよ。減ったまま放っとかれると、疲れるのは当然だろ」
生徒の目がゆっくりと上がる。
その表情は、許しを求めるでも、反論するでもない。ただ、ようやく言葉を飲み込める状態になったように見えた。
「……怒っていいんだよ。断ってもいい。優しくなくても、嫌われるとは限らない」
短い沈黙のあと、生徒は息を吐いた。
「……でも、嫌われたらどうしようって思う」
「嫌われるのが怖いのは普通だよ。でも、“優しい役割”のまま疲れていく自分より、嫌われるのを怖がってる自分のほうが、まだ本音に近いだろ」
生徒の肩がわずかに落ちた。
重さを下ろしたというより、ようやく正しい場所に置き直せたような、そんな落ち方だった。
相談室の時計が静かに針を進める。
生徒はゆっくりと立ち上がり、扉の前で一度だけ振り返った。
「……ありがと」
遥は返事をしなかった。
ただ視線で送り出す。それで充分だと知っているように。