テラーノベル
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朝の教室。
ざわざわした空気の中で、遥はいつもの席にいた。
けれど、その姿勢は不自然なほど静かだった。
背筋を伸ばそうとしても伸びない。
首の後ろがじくじく熱く、肩の奥は鈍い石が入っているみたいに重い。
昨日の夜、颯馬に押しつけられた“手”がまだ残っている。
直接殴られたわけじゃない。
ただ、力のかかった角度が悪かった。
押さえつけられる体勢の時間が長かった。
その積み重ねが、朝になって身体の中で爆ぜた。
(……痛い、けど。大丈夫。いつもの……)
そう思い込もうとするたび、視界の端がにじむ。
チカチカと光が弾け、耳鳴りが一瞬だけ強まった。
それでも遥は前を向いた。
“平気な顔”を続けることだけが、自分を守る唯一の方法だからだ。
けれど三限目の途中、身体の奥が突然“抜けた”。
痛みではなく、空白。
芯が崩れ落ちるような感覚。
(……あ、やばい)
そう思った瞬間、黒板の文字が遠ざかった。
次の瞬間、机の角が肩にぶつかり、膝が床に落ちる。
頭を打たないようにと咄嗟に手を伸ばしたが、力が入らない。
ほんの小さな衝撃でも、背中と首に激しい眩暈が走った。
教室にどっと笑いが広がる。
「また遥かよ」
「サボりたいだけじゃね?」
「ちょっと押しただけで倒れるんじゃね?」
教師ですら、呆れたようにため息をつく。
「……保健室行くか。ほら、誰か連れてけ」
誰も動かない。
一瞬だけ沈黙が落ち、その沈黙が“拒否”そのものだった。
遥は顔を上げられない。
上げたら泣く。
泣いたら終わる。
だからじっと、うずくまるしかなかった。
廊下を走る靴音が、やけに大きく跳ねる。
呼び出しの伝言を聞いた瞬間、日下部は反射で走っていた。
(倒れたって……なんだよそれ)
心臓の奥が、じりじりと焦げるように熱い。
教室の扉を乱暴に開けた。
「遥!」
中にいた生徒たちが驚いて振り返る。
だが日下部の視界には、床に崩れている遥しか映らない。
近づきながら膝をつき、肩に触れた瞬間――
遥の身体がびくっと小さく震えた。
その震えが、日下部の胸を刺す。
「……っ、ごめん……触んな……」
かすれた声。
拒んでいるわけじゃない。
“痛いところに触れられるのが怖い”だけの反応だった。
その意味がわかった瞬間、日下部の顔から血の気が引いた。
(ここまで……我慢してたのかよ)
震えを落ち着かせるように、ゆっくり手を離し、代わりに声だけを静かに落とす。
「大丈夫。動かさないから。
……無理すんな、遥」
その柔らかい声に、遥の肩がふっとゆるんだ。
――そして、目が合った。
その目は、
昨日の日下部の“逃げの言葉”を聞いた後の、
壊れかけた透明な光をまとっていた。
「……ごめん。守れなくて」
遥は、泣きそうな声で言った。
“自分のせいで倒れたと誤解される前に、謝る”という、長年の習慣のように。
「違う。お前が謝ることじゃねぇよ」
日下部の喉の奥が震えた。
このまま誰かに任せて保健室に連れていけばいい。
でも、それは絶対に違う。
今、離れたら――昨日浮かんだ“距離を置く”という選択が、本物になってしまう。
だから日下部は、ゆっくりと遥の背に手を添え、力を入れすぎないように支える。
「歩けるか」
「……たぶん」
「たぶんじゃねぇよ。
無理なら言え。俺が支えるから」
その言葉に、遥は一瞬だけ息を呑んだ。
(……逃げねぇよ)
日下部の目が、そう訴えていた。
ゆっくり歩く。
遥は痛みに顔をしかめながらも、何も言わない。
日下部は横で歩きながら、手の震えを必死に押し隠していた。
(こいつ……こんなになるまで、誰にも言えなかったのか)
苛立ちではなく、悔しさでもなく――
ただ、痛いほどの自責が胸に積もる。
(昨日、“距離置く”なんて考えて……馬鹿かよ、俺)
歩幅を合わせながら横目で見た遥は、
痛みに耐えながらも、ほんの少しだけ日下部の袖をつまんでいた。
無意識の動作。
弱さを晒さないための意地と、それでも消せない“頼る感情”の境界線。
日下部は、袖をつまむ指に気づかないふりをした。
気づいてしまえば、泣きそうだったからだ。
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