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放課後のチャイムが消え、校内は静かな夕方の気配に変わっていた。
相談室の前の廊下だけが、どこか取り残されたみたいに空気が薄い。
日下部は机に教科書を伏せ、ぼんやりカーテン越しの光を眺めていた。
コン、と扉の木が鳴った。
「入っていいぞ」
言うと、ゆっくり扉が開き、少年が顔だけ覗かせた。
目の奥に、迷ってきたことがまるわかりの影がさしている。
「……ちょっと、話していい?」
「いいよ。座れ」
少年は遠慮がちに椅子へ座る。背中が強張っていて、言葉が出るまで少しかかる子だ、と日下部はすぐ気づいた。
沈黙が落ちる。
日下部は、とがった言い方も急かしもせず、ただ待った。
やがて、少年は喉を震わせながら言った。
「怒られた記憶だけ、なんか……ずっと消えないんだよね。
何年も前のことなのに、昨日のことみたいに思い出せる。
めちゃくちゃ細かいとこまで」
日下部は軽く目を細める。
驚きでも否定でもない。ただ“わかるぞ”という目だ。
「どんな怒られ方したんだ?」
少年は膝の上で手をいじりながら、小さく息を吸った。
「……小学生のとき。
先生に、全員の前で怒鳴られて。
理由はちゃんとあったのかもしれないけど……
なんか、自分だけ“悪い子”みたいにされたのが、すごく恥ずかしくて……
あのときの顔とか声とか……まだ、はっきり残ってる」
そこで言葉が途切れる。
ほんの一瞬、少年の視線が揺れた。
「楽しかったこととか、褒められたことは全然覚えてないのに。
怒られたとこだけ、何回も思い出す。
……なんでなんだろう」
日下部は椅子の背にもたれず、少し少年の方へ体を向ける。
その向き方に押しつけはないが、逃げ場を塞がない“寄り添い”の形だけは守っている。
「……それ、自分が弱いんじゃなくて、脳のクセだぞ」
「クセ……?」
「ああ。
怒られた記憶って、“危ない”とか“もう起こしたくない”って体が判断すんだよ。
だから勝手に強く残る。
悪い意味じゃなくて、生き残るための反応みたいなもん」
少年はゆっくり顔を上げた。
「……じゃあ、俺がおかしいわけじゃない?」
「全然。むしろ普通。
ただ……“そのときの感情”ごと残すから、しんどいんだろ」
少年の指が止まった。
沈黙のあと、ぽつりと。
「怒られたときの自分って……なんか、すごい小さかった気がする。
怖かったのに、“別に痛くない”って思い込もうとして……
でも、ほんとはめっちゃ傷ついてて……
その感じだけ、ずっと自分の中にいる」
その声に、長く抱えてきた痛みがにじんでいた。
日下部は軽く頷きながら言った。
「あのときの“ちっちゃい自分”が、まだ安心できてねぇんだよ。
怒鳴られた瞬間のまま止まってる」
少年は驚いたように目を開いた。
「止まってる……?」
「そう。
だから、今のお前が思い出すたびに締めつけられる。
それは記憶じゃなくて、“あのときの自分”が叫んでる感じに近い」
少年は静かに息を吐いた。
その吐息は、痛みと安堵が混ざった音だった。
「……どうしたら、消えるかな」
「消さなくていい」
日下部は即答した。
強さではなく、揺らぎのない優しさで。
少年は戸惑う。
「え……でも、嫌な記憶だし……」
「嫌な記憶でもな、
“あのときの自分は、ちゃんと傷ついたんだ”って気づくだけで、刺さり方が変わる。
記憶自体は残るけど、痛みは薄くなる」
少年の目が潤んだように見えた。
怒鳴られたときの小さな自分に、やっと手が届くような気配。
「……そんな簡単に、できるかな」
「すぐは無理。
でも、こうして話しただけで、あの頃の自分はちょっと楽になったはずだぞ」
少年は唇を噛んだまま、うなずいた。
「……また来てもいい?」
日下部は視線を逸らさずに答えた。
「いつでも来い。
怒られた記憶、何回でも分けてくれていいから」
少年はゆっくり立ち上がり、扉に手をかける直前、ふっと振り返った。
「……ありがと。言えてよかった」
「おう」
扉が閉まる。
夕陽の色が相談室に落ちて、しばらくそのまま静かに揺れていた。