テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
久我は、その夜ほとんど眠れなかった。
瞼を閉じるたび、取り調べ室の白い机と、黒瀬の指先が浮かぶ。
触れてはいない。ただ、それだけの距離が、異様に重かった。
翌朝、久我は資料室に籠もっていた。
黒瀬の過去、失踪者の共通点、現場付近の防犯記録。
どれも既に何度も洗ったはずの情報だ。
――それでも、違和感が消えない。
「黒瀬は、“犯人らしすぎる”」
独り言のように呟く。
証拠の出方も、沈黙の保ち方も、あまりに整っている。
昼前、同僚の刑事が声をかけてきた。
「久我さん、上から急かされてますよ。
そろそろ“落とせ”って」
「……分かってる」
分かっている。
だからこそ、胃の奥が冷える。
午後、再び取り調べ室。
黒瀬はすでに座っていた。
「今日は、顔色がいいですね」
「余計なことは言うな」
「眠れましたか」
久我は答えなかった。
代わりに、一枚の写真を机に置く。
「この失踪者。
最後に目撃されたのは、君の勤務先の近くだ」
「ええ」
「だが、君が出勤していない日だ」
黒瀬の視線が、ほんの一瞬揺れた。
久我は見逃さなかった。
「……調べ直した結果だ」
「そうですか」
黒瀬は、すぐに平静を取り戻す。
「では、私はますます疑わしい」
「なぜだ」
「あなたが、そう言ってほしい顔をしている」
久我は唇を噛んだ。
「君は、わざと隙を見せた」
「ええ」
あっさり認める。
「あなたが“追う側”に戻るか、
それとも“踏み込む側”になるか」
久我は、机に手をついた。
「私は、真実を知りたいだけだ」
「それは、嘘です」
黒瀬は静かに言った。
「あなたは、私が犯人であってほしい」
「……」
「そうでなければ、
あなたがここまで揺さぶられた理由を
説明できなくなる」
言葉が、胸に突き刺さる。
「久我さん」
黒瀬が、名前を呼んだ。
声が低く、近い。
「あなたは今、私を取り調べているつもりで、
本当は自分を確認している」
久我は、視線を逸らさなかった。
「確認して、どうする」
「反転させるんです」
「何を」
「立場を」
久我は、思わず笑ってしまった。
「……馬鹿なことを」
「ええ。馬鹿げています」
黒瀬は同意する。
「でも、あなたはもう
“疑われる側”の感覚を知ってしまった」
久我の背中に、冷たい汗が流れた。
「沈黙が、どう扱われるか。
視線が、どう意味づけられるか」
黒瀬は続ける。
「それを知った捜査官は、
もう以前と同じ正義を使えない」
久我は、録音機に目を落とした。
赤いランプが、淡々と点いている。
「……君は、何者だ」
「被疑者です」
黒瀬は、わずかに笑った。
「そして、あなたが
自分で選んだ“鏡”です」
沈黙が落ちる。
その静けさの中で、久我は理解してしまった。
黒瀬は、逃げていない。
追われることすら、織り込み済みだ。
「……今日は、ここまでだ」
久我は立ち上がった。
「はい」
黒瀬は素直に応じる。
ドアを開ける直前、久我は振り返った。
「一つだけ答えろ」
「何でしょう」
「君は、本当に犯人なのか」
黒瀬は、少し考える素振りを見せてから言った。
「その問いを口にした時点で、
あなたはもう“安全な側”にはいません」
久我は、何も言えなかった。
廊下に出ると、空気がやけに薄く感じられた。
追っているはずの事件が、いつの間にか反転し、
自分を中心に回り始めている。
――次に崩れるのは、証拠か。
それとも、自分か。
久我は、その答えを
もう黒瀬が知っている気がしてならなかった。