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取り調べ室の空調は、いつもより低く設定されているはずだった。
それでも久我の額には、薄く汗が滲んでいた。
黒瀬は、いつも通り椅子に座っている。
背筋を伸ばし、手は机の上。
逃げる姿勢も、挑発する態度もない。
「体調は」
「問題ありません」
淡々とした返答。
その声が、今日はやけに近く感じられた。
久我は資料を一枚、机の中央に滑らせる。
「昨日までの供述と矛盾がある」
指で示したその瞬間だった。
――触れた。
黒瀬が資料を見るために、同時に手を伸ばした。
ほんの一瞬。
指先が、重なっただけ。
それだけだった。
だが、久我の身体は即座に反応した。
肩が強張り、呼吸が浅くなる。
心臓が、打ち間違えたように跳ねる。
「……っ」
久我は、反射的に手を引いた。
音を立てて、資料がずれる。
黒瀬は動かなかった。
ただ、触れたまま止まっていた自分の指を、ゆっくりと戻す。
「失礼しました」
形式的な言葉。
だが、その視線は久我から離れない。
――見られた。
動揺を。
拒絶とも、衝動ともつかない反応を。
「……続けるぞ」
久我は声を低くして言った。
自分に言い聞かせるように。
黒瀬は頷く。
「はい」
それだけ。
だが、先ほどまで保たれていた距離感が、確実に崩れていた。
久我は質問を投げる。
行動記録。
交友関係。
失踪者との接点。
どれも、これまでと同じだ。
黒瀬の答えも、変わらない。
――それなのに。
久我の意識は、何度も“指先”に引き戻される。
温度。
圧。
あの一瞬の、確かな存在感。
触れたのは偶然だ。
そう理解している。
だが、身体が理解していない。
「久我さん」
黒瀬が、ふいに名前を呼んだ。
「今の質問、もう一度お願いします」
久我は一瞬、何を聞いたのか分からなくなっていた。
自分が、言葉の途中で止まっていたことに気づく。
「……失踪者Aとの関係だ」
「ありません」
即答。
迷いのない声。
久我は、録音機の赤いランプを見つめた。
確かに、全ては記録されている。
ここで起きたことも、言葉としては何も残らない。
だが――
「……さっきのことだが」
口が、勝手に動いた。
「はい」
「偶然だ」
黒瀬は、わずかに目を細めた。
「ええ。偶然です」
その言い方が、妙に丁寧だった。
「……以上だ」
久我は、それ以上続けられなかった。
立ち上がり、終了を告げる。
黒瀬も立ち上がる。
護送のために手錠をかけられる直前、低く言った。
「でも」
久我は、思わず視線を向けてしまった。
「あなたは、避けませんでした」
その一言で、全身が冷える。
「普通なら、
触れる前に引きます」
黒瀬は、久我を責めるでもなく、観察するように言う。
「あなたは、遅れた」
久我は、何も返せなかった。
黒瀬は連れて行かれる。
ドアが閉まる直前、ちらりと振り返り、こう言った。
「それが悪いとは、言っていません」
完全に扉が閉じる。
久我は、一人になった取り調べ室で、机に手をついた。
先ほど触れた場所を、無意識に見つめる。
偶然だった。
だが、避けられたはずだった。
その事実が、胸の奥に沈殿する。
――なぜ、避けなかった。
答えは出ない。
ただ、指先の感覚だけが、消えずに残っていた。
その夜、久我は気づくことになる。
あの接触が、境界ではなく、入口だったということに。