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十月十八日の午後、花屋「花は散らない」の裏口に、白群リゾートの封筒が届いた。厚手のクリーム色の紙で、角だけがやけにきっちりしている。澄江は表を見ただけで何も言わず、帳場の端へ静かに置いた。
ハヤは水揚げを終えたバケツの水を替えながら、その封筒を見ないふりをした。見れば開けることになる。開ければ、返事をしなければならない。
「逃げ足の速さで、紙の存在まで消せるなら便利なんですがね」
ノイシュタットが店先から戻って来て、濡れた手ぬぐいを首に掛けたまま言った。
「今は、そういうのいらないです」
「分かっている。だから半分だけ言った」
オブラスが夕方に来て、封筒の中身を机に広げた。返答期限は十月二十一日。花屋の名称使用は可能、内装も一部維持可能。ただし仕入れ先、価格設定、勤務体系、営業日、販促物の管理権限は本部側が持つ。やわらかく整った言葉ばかりなのに、読めば読むほど、店の輪郭が薄くなる。
「残す、ではありません」
オブラスは紙を指で押さえた。
「形だけ借りて、中身を入れ替える書き方です」
ハヤは黙ってうなずいた。分かる。分かるのに、胸のどこかで、少しだけ楽だとも思ってしまう。仕入れも値付けも誰かが決めてくれたら、自分で選ばなくて済む。失敗した時も、自分だけの責任ではなくなる。
その考えに気づいた瞬間、自分で自分の喉を締めたような苦しさが来た。
「迷うのは悪くないです」
オブラスが淡々と続ける。
「悪いのは、黙ったまま流されることです」
ノイシュタットは珍しく口を挟まなかった。窓の外では、朝風通りの石畳を、乾いた風が薄い落ち葉ごと滑っていく。秋の店じまいみたいな音だった。
ハヤは封筒を持ち上げた。
「返事は、今日しません」
「はい」
「でも、放ってもおきません。私が決めます」
言い切ったあとで、膝の裏が少し震えた。たいした宣言ではない。ただ、逃げるだけの日を一日減らした、それだけだ。
ノイシュタットが小さく息を吐く。
「その一日、立派です」
「褒めなくていいです」
「では記録しておこう。十月十八日、午後五時四十分。花屋の人が、自分で選ぶ時間を確保した」
帳場の時計が、こつりと鳴った。
ハヤは封筒を引き出しへしまい、鍵ではなく自分の手で閉めた。閉じたのは答えではない。答えを急がせる音を、いったん外へ出しただけだった。
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