撮影終わりのスタジオは、照明が落ちて静まり返っていた。
全員が帰り支度を始めているのに、泉はまだセットの隅に立ち尽くしていた。
ミスが大きすぎた。
主役の表情の切り替え、本来なら一発で決めるはずのシーン。
全部、自分のせいで押し直しになった。
背後から、足音。
振り向かなくてもわかる。柳瀬だ。
「……泉」
名を呼ばれた声は驚くほど静かで、逆に胸が痛くなる。
「何がズレた」
「……わかってます」
「ああ。だから聞いてる」
短い沈黙。泉は小さく息を落とした。
「……集中が切れました」
「理由は」
「……あなたが、見てたから」
柳瀬の目が、わずかに細くなる。
非難でも戸惑いでもない。
“最初から知っていた” みたいな目。
「言い訳にならない」
「……わかってます」
柳瀬が一歩だけ近づく。
泉は反射的に下がる――が、壁があった。
逃げ道を奪いに来たわけではない。
ただ“逃げられない距離”に来ただけ。
なのに喉がひとりでに鳴る。
「言っただろ。芯を崩すな」
「……崩してない」
「崩れてた。俺が見てたくらいで揺れるなら、まだ浅い」
静かな声のまま、逃げ場を与えない。
泉は俯いたまま唇を噛む。
そこで、柳瀬の指が泉の顎に触れた。
触れる――完全に。
親指でゆっくり顎を上げられる。
「顔、上げろ」
喉が震えた。
「怒ってるんじゃない」
耳の横に落ちた声は、低く、熱い。
柳瀬の指が顎から離れ、首筋へ滑る。
押しも引きもしない、“確かめる”触れ方。
触れられるたびに泉は息を呑む。
柳瀬はその反応を正確に拾って、指先を鎖骨までゆっくり動かす。
「……お前の反応が鈍るのが嫌いなんだ」
その一言だけで、膝が緩んだ。
「お前が揺れる瞬間、俺は全部わかる。
それが見えにくいと……仕事にならない」
「……仕事、ですか」
泉の声が震えそうになる。
柳瀬の指は止まらない。胸元ぎりぎりまで近づいてくる。
「そうだ。
お前の反応が鈍ったら、使えない」
“使えない”。
悔しいのに、離れられない。
泉は抑えきれず、柳瀬の胸に触れようと指を伸ばす。
触れたら、何かが変わる。
だが柳瀬が、手首を軽くつまんで止めた。
「……触るな」
「……なんでですか」
「今は俺が触ってる。
順番を勝手に変えるな」
泉の呼吸が乱れる。
柳瀬の親指が喉元を撫でる。
静かなのに支配的な触れ方。
「揺れてる。それでいい」
「……柳瀬さん」
名前を呼んだ自分の声が震えて、泉は目を閉じた。
柳瀬は少しだけ目を細める。
「帰るぞ。……歩けるなら」
「……歩けます」
「なら行け。続きは、また後だ」
“続き”の二文字が、腹の奥まで響いた。
出口へ向かう足がふらつく。
柳瀬は後ろから何も言わない。
ただ、確かに“見ている”。
その視線にまた反応してしまう。
――それを柳瀬は望んでいる。
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