取り調べ室は、いつも同じ匂いがした。古い金属と、言葉にならなかった沈黙の残り香。
久我雄一は椅子に座る男を一瞥し、ドアを閉めた。
黒瀬恒一。二十代後半。無職。連続失踪事件の被疑者。
手錠は外されているが、両手は膝の上で静かに組まれている。逃げる気配も、怯えもない。むしろ、ここに“用意されていた”かのような落ち着きがあった。
「……体調はどうだ」
形式的な一言だった。
黒瀬は顔を上げ、久我を見る。視線が合った瞬間、久我はわずかに肩を強張らせた。観察されている、という感覚が皮膚をなぞる。
「問題ありません」
声は低く、抑揚がない。
久我は机の上に書類を置き、椅子に腰を下ろした。
「では始めよう。君は――」
「久我さん」
名前を呼ばれ、言葉が止まる。
呼び捨てではない。だが、親しさを含ませるには正確すぎる発音だった。
「……取り調べでは、被疑者が担当者の名前を呼ぶ必要はない」
「必要かどうかではなく、事実として知っているだけです」
黒瀬は淡々と言った。
久我は眉をひそめる。
「黙秘を続けるなら、その権利は認められる。ただし――」
「今日は三時間ですね」
黒瀬が言葉を重ねる。
久我のペン先が、わずかに止まった。
「午前の会議が押して、昼食は取っていない。コーヒーは二杯目。睡眠は、昨夜も三時間程度」
沈黙が落ちる。
空調の低い唸りだけが、部屋を満たした。
「……何が言いたい」
「確認です。あなたが“正常な判断”をできる状態かどうか」
久我は息を吐いた。
挑発だ。典型的な、主導権を握るための言葉遊び。そう理解しながらも、胸の奥に小さな棘が刺さる感覚を否定できない。
「事件の話をしろ。失踪した三人と、君の関係だ」
黒瀬は一度、視線を机に落とした。
そして首を横に振る。
「それには答えません」
「理由は」
「答えると、あなたが困るからです」
久我は思わず、椅子の背にもたれかけた。
被疑者が捜査官の都合を語る。その異様さよりも、言葉の確信が気にかかる。
「……君は、自分の立場を理解しているのか」
「しています。ここでは、あなたが強い。外では、なおさら」
黒瀬は顔を上げ、久我を見据えた。
「でもこの部屋では、対等です。言葉しか使えませんから」
久我の喉が、わずかに鳴った。
否定したい衝動があった。だが、否定する材料がない。
「久我さん」
再び名前を呼ばれる。
「あなたは、人を“真実”で救えると思っていますか」
その問いは、事件とは無関係だった。
それなのに、久我の脳裏には、過去の供述書と、取り消せなかった判決文が一瞬でよぎる。
「……質問の意図が分からない」
「分からないままでいいです。ただ」
黒瀬は、ほんのわずかに口角を上げた。笑顔と呼ぶには、あまりに静かだった。
「今日は、まだ黙っていましょう。
あなたが壊れないうちは」
久我は返す言葉を失い、机の上の録音機を見た。
赤いランプは、確かに点灯している。
記録は残る。
だが、この沈黙の意味だけは、どこにも残らない。
取り調べ室の檻は、音もなく閉じたままだった。







