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取り調べ室を出たあとも、久我の耳には黒瀬の声が残っていた。
録音機のランプが消えた瞬間に解放されるはずの沈黙が、なぜか内側に貼りついたまま剥がれない。
「あなたが壊れないうちは」
誰に言われた言葉でもない。
だが、久我はその一言を、まるで診断結果のように反芻していた。
翌日。
同じ時間、同じ部屋。
ドアを開けると、黒瀬はすでに席についていた。姿勢は昨日と寸分違わず、まるで時間が停止していたかのようだ。
「おはようございます」
黒瀬が言う。
挨拶というより、事実確認に近い声音だった。
「……ああ」
久我は短く応じ、椅子に腰を下ろす。
机を挟んだ距離は変わらない。だが、視線だけが、昨日より近い。
黒瀬は久我を見ている。
逃げもせず、瞬きも最小限で。観察というより、測定だ。
「睡眠は、四時間」
不意に言われ、久我は眉をひそめた。
「……黙秘を続けるつもりなら、私語は控えろ」
「改善していますね。昨夜よりは」
黒瀬は淡々と続ける。
久我は、書類をめくる音を必要以上に大きく立てた。
「事件の話をする。君が最後に失踪者と接触した日時――」
「その前に、一つだけ」
遮られる。
久我は顔を上げた。
「視線を逸らす癖、意識していますか」
「何の話だ」
「昨日は三回。今日はもう五回」
黒瀬は、指で机を叩くこともなく数字を告げる。
「人は、不快な対象から目を逸らします。
でもあなたは、私からではなく――自分の考えから逸らしている」
久我は、言葉を切ろうとして、止めた。
反論すれば、相手の土俵に乗る。それが分かるほど、黒瀬の語りは計算されている。
「……推測は不要だ」
「では、観察ということにしましょう」
黒瀬は小さく首を傾けた。
「久我さんは、優しい。
だからこそ、疑うときに必ず自分を削る」
胸の奥が、わずかに軋んだ。
それは評価でも、侮辱でもない。ただの事実を並べられたような感覚。
「私は、君に性格診断をされるためにここにいるわけじゃない」
「分かっています。あなたは“正しい人”です」
黒瀬はそう言ってから、ほんの一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「……正しくあろうとする人」
久我の視線が、思わず黒瀬に戻る。
その一瞬を、黒瀬は逃さなかった。
「ほら。今は逸らしません」
久我は、無言でペンを置いた。
記録は進んでいない。だが、時間だけが確実に削られていく。
「なぜ黙秘を続ける」
久我は、声を低くして問い直した。
「答えれば、楽になるだろう。君自身も」
「楽になるのは、あなたです」
即答だった。
「真実が欲しい。そうすれば、あなたは前に進める。
でも、私がそれを渡したら――」
黒瀬は、視線をさらに深く向ける。
「あなたは、また誰かを切り捨てることになる」
空調の音が、やけに大きく聞こえた。
久我は、無意識に拳を握りしめている自分に気づく。
「……根拠のない話だ」
「根拠は、あなたの過去です」
黒瀬の声は変わらない。
それなのに、その一言は刃のように鋭かった。
「詳しくは言いません。今日はまだ、必要ありませんから」
久我は立ち上がり、椅子を引いた。
「今日はここまでだ」
「はい」
黒瀬は素直に頷いた。
「でも、覚えておいてください」
ドアに手をかけた久我の背に、声が届く。
「この部屋で、目を逸らしているのは――
あなたの方です」
久我は振り返らなかった。
振り返れば、視線の主導権を完全に渡してしまう気がしたからだ。
ドアが閉まる。
それでも、黒瀬の視線は、久我の背中に張りついたままだった。
檻の中で見られているのか。
それとも、外から見張られているのか。
その区別は、すでに曖昧になり始めていた。