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放課後、校門の影に立つ怜央菜を見つけたとき、日下部は反射的に背筋を伸ばした。
「日下部。……少し、いい?」
声は柔らかい。
けれど、その下に沈んだ冷たさを、日下部は前から知っている。
「遥のことで、お願いがあって」
怜央菜は、眉を下げて見せた。
“姉として心配している”という、完璧に作られた表情。
「昨日から様子がおかしいの。家ではほとんど喋らなくて……食事も半分残すし。
心配してるのよ。颯馬も、晃司も」
(あの颯馬が、心配?)
日下部は胸の奥がざらつくのを抑えきれなかった。
「あなた、あの子に一番近いでしょ? だから……少しだけ、来てあげてくれない?」
断れない。
拒めば、遥にまた何かが降りかかる。
そう思わせる“計算された言い方”だった。
「……分かった。行く」
怜央菜は満足げに微笑んだ。
「ありがとう。助かるわ」
家に入った瞬間、空気が変わった。
リビングは静かすぎるほど静かで、
壁の時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
沙耶香がテーブルに座っていた。
表情はほぼ無。視線だけが、氷のように日下部をなぞる。
晃司はソファに腕を組んで座り、
何かを抑え込むような静かな苛立ちを身に纏っていた。
颯馬は壁にもたれ、唇の端を噛みしめて笑いを堪えている。
目が完全に“遊び道具を見る目”になっていた。
その空間だけで、日下部の全身に悪寒が走る。
(……これが、“家の中”。
遥が毎日ここに帰っている場所……?)
視界が狭くなった。
そうして奥の部屋から、遥がゆっくり姿を見せた。
細い。
今日は特に、痛々しいほど細かった。
首筋には、制服の襟で隠しきれない痣。
歩き方もぎこちない。
でも——。
「……よ」
遥は笑っていた。
怯えているのに、笑って見せた。
“この家では、笑っていないといけない”
と、体が覚えてしまったような笑い方で。
日下部の呼吸が止まった。
「ごめん……呼んじゃったみたいで」
軽く言ったつもりなのだろう。
それでも声は触れただけで折れそうだった。
日下部は、拳を握りしめながら言葉を探した。
「遥……大丈夫じゃねぇだろ、それ……」
颯馬がにやりと笑った。
「お前こそ大丈夫? ここ、来て後悔してない?」
その瞬間、日下部は悟った。
——罠だ。
家族全員で、最初から“日下部を連れ込む”つもりだった。
怜央菜が静かに言う。
「ねえ日下部。遥に、ちゃんと話してあげて」
「……何を」
「あなたが“離れようとしてる”ってこと」
遥の肩がびくりと揺れた。
日下部の心臓が凍りついた。
「……違う。俺は——」
「違わないよ」
怜央菜は微笑んだまま、刃物のような声で遮った。
「あなたが、迷ってた顔……あれ、遥にも見えてたから」
遥の目に、薄く絶望の色が差した。
「俺のせいで……また、誰かが……離れて……」
「違う!!」
日下部が声を上げた瞬間、
晃司がソファから立ち上がり、
「静かにしろ、外まで聞こえるだろうが」
冷たい一声で部屋が凍りつく。
颯馬だけが——面白そうに目を輝かせていた。
「さ、どうすんの? 日下部。
ここで兄弟の前で嘘つくのって、勇気いるよね」
遥は、すこし震えながら笑っている。
泣きそうなのに、笑って耐えながら。
日下部は、自分の喉が焼けるように乾いていくのを感じた。
——ここが奴らの“本拠地”。
——遥が毎日、一人で立ってた場所。
その重さにやっと触れた気がした。