放課後の廊下。誰もいない教室の前で、日下部は立ち止まっていた。
ガラス窓の向こうで、蓮司が黒板に何かを書いている。
白いチョークの音が、静けさの中に乾いた軌跡を刻んでいた。
「……また、残ってんのか」
声をかけると、蓮司は振り向きもせずに笑った。
「人がいなくなると、落ち着くんだよ。
お前もそうだろ?」
その言葉に、日下部は無意識に頷いていた。
何もかも見透かされたような感覚が、胸の奥に広がる。
「最近、静かだな。遥とは、もう話してないんだろ?」
「……あいつは、もう関係ない」
「関係ない、ね。そう言えるなら立派だよ。
でも、お前、まだ“痛み”を引きずってる顔してる」
蓮司はチョークを置き、ゆっくりと歩み寄る。
机を挟んで、わずか数十センチ。
日下部は、どこか逃げ場を失ったように肩を固くする。
「俺さ、思うんだ」
低い声が、まるで耳の奥に直接触れるように響いた。
「“傷つけられた”奴より、“裏切られた”奴の方が深く残るんだよ」
日下部の呼吸が止まる。
言葉が、痛みの核心を正確に突いてきた。
「……お前、そうやって言葉で弄ぶの、得意だな」
「違う。俺はただ、分かるだけだよ。
あいつが“守ろう”としたのも、結局は自分のため。
お前を守ることで、“いい人間”でいられると思ったんだ」
その論理が、日下部の中で反発と共に妙な安堵を呼ぶ。
誰にも説明できなかった“怒り”を、誰かが形にしてくれる。
そのこと自体が、救いのように思えてしまった。
「……かもな」
その一言が、沈黙の隙間に落ちる。
蓮司はその反応を見逃さなかった。
「な、やっぱり。お前、分かってるじゃん」
その声が、どこか優しく響く。
まるで、理解という名の鎖で繋ぎとめるように。
日下部の指が机を掴む。
「……でも、あいつは俺を庇った」
「庇った? それは“贖罪”だよ。
お前を見てると、あいつは自分が赦される気がするんだ。
それを“優しさ”って呼ぶんだよ」
日下部の喉が鳴る。
言葉が出ない。
ただ、蓮司の声だけが、どこまでも滑らかに流れ込んでくる。
「なぁ、もういいんじゃないか。
傷つくことに、正しさなんていらない。
“分かってくれる”奴がいれば、それで」
その瞬間、蓮司の指が日下部の肩に触れた。
ほんの一瞬の接触。
けれど、そこに含まれた“肯定”の温度が、異様に鮮明だった。
──分かってくれる。
そう錯覚しただけで、息が少し楽になった。
だが同時に、胸の奥に微かな嫌悪が浮かぶ。
この男の言葉は、優しすぎる。
優しさが、どこか嘘みたいに滑らかすぎる。
「……お前、何が目的なんだ」
「目的? ただ、お前を“自由”にしてやりたいだけだよ」
蓮司はそう言い残し、笑って出ていった。
残された教室の中で、
日下部は、ただ机の上を見つめていた。
そこには、あの日拾ったノートの切れ端がある。
“ごめん”の一文字。
もう誰の文字かは、見なくても分かる。
指先が、その文字を覆い隠す。
──誰も救えない。
でも、壊すことならできる。
その思考が、頭の奥でかすかに熱を帯びていた。
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