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その日、泉は朝から落ち着かなかった。
柳瀬からのメッセージはいつも通り、業務的で短い。
──スタジオ入り13時。準備しておけ。
どこにも特別な言葉はない。
“触れない日”という宣告だけが、耳の奥に焼き付いている。
スタジオに入ると、いつもより空気が重い気がした。
照明はまだ落ちていて、広い空間に柳瀬の足音だけが響いている。
「来たか」
それだけで泉の背筋が伸びる。
声は淡々としている。
だが、どこか冷たく、どこか熱い。
「今日は……撮影だけだ」
言外に、“他には何もしない”という意味が含まれている。
触れない。
それだけなのに、泉の呼吸はしづらくなる。
「はい」
返事をした瞬間、柳瀬の視線が泉の首元を通り過ぎた。
触れられてはいない。
けれど、皮膚が勝手に震えた。
まるで、そこに手を置かれたかのように。
撮影は順調だった。
はずなのに、泉はまともに柳瀬の目を見られない。
柳瀬はレンズの向こうで、いつも通り冷静だった。
しかし、声だけが異常なほど泉の体に染み込んでくる。
「そこで止まれ。……そう、息は浅めでいい」
「目線を落とす。お前はそういう顔のほうが濡れる」
濡れる、という言葉の選び方。
柳瀬は意図的なのか、無意識なのか。
どちらでも、泉には関係ない。
もう指先が勝手に疼いていた。
「泉。肩が上がってる」
「す、すみません……」
「触れて直すか?」
柳瀬が、あえて確認するように言う。
その瞬間。
泉の心臓が跳ね上がる。
触れないと言われているのに、触れる選択肢を提示するなんて。
「……大丈夫です」
声が震えてしまった。
柳瀬はすぐに反応しない。
わずかに笑った気配がする。
「じゃあ、触れられないで直せ。自分で」
命令のような声。
それなのに、どこか甘い。
泉は呼吸を整えようと肩を回した。
ただそれだけなのに、柳瀬の視線がどこを通っているのか、全身で感じる。
触れられていない。
けれど“見られている”。
その事実が、指でなぞられるよりも強く泉をかき乱した。
休憩時間、泉は壁にもたれて深く息を吐いた。
柳瀬はカメラを整えながら、ふと視線だけを向ける。
「どうした」
「いえ……なんでもありません」
「声が違う」
低く言われた瞬間、泉の全身が強張った。
柳瀬は歩み寄る――かと思ったが、数歩手前で止まった。
本当に触れない。
だけど、その距離が逆に苦しい。
「触れないと決めただけで、そんな顔をするのか」
「……してません」
「してる」
断言する声が、熱い。
「触れるほうが簡単なんだよ。お前は」
「今のほうが……ずっと反応が露骨だ」
泉は目を伏せた。
図星すぎて、否定すらできない。
触れられていないのに、全身が昂ぶっているなんて言えるはずがない。
「泉」
名前を呼ばれただけで、膝の裏が震える。
「触れてほしいなら、言え」
挑発。
罠。
言わせるための言葉。
泉は唇を噛む。
「……いいえ」
柳瀬は、わずかに息を笑わせた。
「言わないほうが正解だ」
それは褒め言葉ではなかった。
でも、泉の胸は痛いほど跳ねた。
触れられない。
ただ視線と声だけで追い詰められていく。
こんな方法があるなんて、思ってもいなかった。
撮影の終わり、柳瀬が機材を片づけながら言った。
「……明日も、触れない日だ」
その宣告は、罰にも快感にも聞こえた。
「理由は?」
気づけば、泉のほうから尋ねていた。
柳瀬は手を止めずに答える。
「お前が今、いちばんいい状態だからだ」
「……いい状態?」
「触れたいのに触れられない時のお前が……一番、綺麗だ」
その言葉一つで、泉の呼吸は音を立てて乱れた。
「帰れ。今日はそれで十分」
追い払うような声なのに、甘く響いた。
スタジオを出ると、夜風が熱を奪う。
けれど胸の中は逆に燃え続けていた。
触れない日。
それは拷問であり、報酬でもあった。