合格の報告をして以来、直也とは音信不通になっていた。
栞がメッセージを送れば、もしかしたら返事をもらえたかもしれない。
でも、彼女にはその勇気がなかった。
栞にとっての初めての恋は、片想いのまま終わった。
それはそれで、美しい思い出として心に刻まれ、永遠に生き続ける。
だから、結果的にはこれで良かったのかもしれない……栞はそう自分に言い聞かせていた。
あれから直也は、続けて二冊の本を出版した。
本のタイトルはこうだった。
『これから恋愛をする君へ~真実の愛を見つけるために大切な10のこと~』
『これから社会人になる君へ~夢を掴むために大切な10のこと~』
栞はもちろん、二冊とも購入済みだ。どちらもすでに読み終え、時折何度も読み返している。
二冊の本は、栞が一人暮らしを始めてから次々に出版されたので、まるで直也からのメッセージのように感じられた。
直也との縁は切れてしまったけれど、本を読むたびに彼と繋がっているような気がして、栞は心が安らいだ。
もちろん、その二冊も栞の宝物となった。
栞の大学生活は、充実していた。
小川綾香とは変わらず良い関係を続けていて、今ではお互いを呼び捨てで呼び合う仲だ。
栞は、今もあのファミリーレストランでのアルバイトを続けていた。
栞の住まいがある最寄駅から数駅戻るだけなので、今でも通っている。
大学では、同じ学部に新しい友達もできた。
その友人の名は竹内愛花(たけうちあいか)。地方出身の彼女は、栞と同じく一人暮らしをしていた。
しっかり者でさっぱりした性格の愛花は、明るい笑顔が魅力的だ。
彼女には、同じ大学の歯学部四年生の田崎隼人(たざきはやと)という恋人がいた。
大学一年の春、栞は田崎が所属するヨット部のイベントに、愛花と一緒に参加した。
その後、愛花はヨット部へ入部したが、栞は体験だけで入部はしていない。
栞は、サークル活動に時間を縛られるのが嫌で、あえて入部はしなかた。
ただし、ヨット部のイベントがある際は愛花と田崎が誘ってくれるので、都合がつけば極力参加するようにしていた。
大学に入ってからこれまで、栞は三人の男性から交際を申し込まれた。
その申し出には感謝の気持ちでいっぱいだったが、特にピンとくる人がいなかったので、結局誰とも付き合っていない。
大学生になれば気軽に恋愛ができるものと思っていたが、栞にとってはなかなか難しいようだ。
栞は直也の恋愛に関する著書を読みながら、自分なりにいろいろ考えた。
その結果、栞は一つの結論に達した。今の自分には恋愛をしている余裕などないということに。
彼女は、夢であるキャビンアテンダントへの道を目指し、日々努力を重ねていた。だから、今は恋愛にはまったく興味がなかったし、新たな出会いも特に探してはいなかった。
翌週、栞は二年生になって初めて心理学の講義を受ける日を迎えた。
慶尚大学の心理学の教授は、佐藤幸三(さとうこうぞう)という、有名な心理学者だった。
彼は70歳を超えた今でも、心理学や自己啓発に関する書籍を次々と出版していた。
その数は、すでに100冊以上にも及ぶ。
栞は、佐藤教授の著書を愛読しており、彼がラジオ番組で担当する人生相談コーナーのファンでもあった。
彼の持論が直也の考えとよく似ていることから、栞は佐藤教授の講義を楽しみにしていた。
心理学の教室は、西校舎の階段式の大教室だ。
栞はその教室へ向かった。
教室に入ると、後ろの席には華やかな集団が座っていた。
彼らは慶尚の付属高校から進学してきた学生たちで、ほとんどが幼稚舎から通っている学生だ。
その育ちの良い派手ないでたちの集団を横目に、栞は一番前の左端の席へ座った。
栞が席について五分ほどすると、愛花が栞の隣にやってきた。
「栞! おはよう! あー、遅刻しそうで焦っちゃったー」
「おはよう! 昨日も隼人さんのところに泊まり?」
「そう。なんか最近二人でアメリカドラマにはまっちゃってさぁ。途中でやめられなくて明け方近くまで観てたから、寝坊だよ~!」
「本当にドラマで寝不足なのー?」
栞がニヤニヤしながら尋ねると、愛花が栞の腕をピシッと叩いた。
「マジでドラマだってばぁ!」
そう言いながら、愛花は眠たそうに机に突っ伏した。
ちょうどその時、チャイムが鳴り響いた。
「そういえば、さっき誰かが言ってたんだけど、心理学のおじいちゃん教授、入院しちゃったらしいよ。それで、今日は代わりの教授が来るんだって! 一年間ずっとその人になるのかなぁ?」
「嘘! 私、佐藤先生の講義、楽しみにしてたのに!」
「栞の趣味は、おじいちゃん趣味かぁ。だから同年代の男性に何度交際を申し込まれても、断るってわけね」
愛花がニヤッと笑いながら言ったので、栞が彼女の背中を叩いた。
「違うもんっ! おじいちゃん趣味なんかじゃないし。ただ、同年代が幼く見えちゃうだけ!」
「あはは、わかったわかった、そんなに怒らないでよ」
その時、講義室の扉がガラッと開き、代理の教授が姿を現した。
栞は入口の方へ目を向けると、思わず息を呑んだ。
なぜなら、入口から入って来た男性は、あの貝塚直也だったからだ。
「!」
「随分若い教授だねー」
「……」
「栞?」
「何で……?」
「栞? どうしたの?」
「あっ、ううん…なんでもない…….」
直也は堂々とした足取りで教壇に上がると、マイクをチェックしてから話し始めた。
「おはよう! えー、もうご存知かと思いますが、佐藤教授が入院されたので、今日から一年間僕が心理学を担当する事になりました。貝塚直也と申します。どうぞよろしくー!」
代理で来た教授があまりにも若かったため、教室内は一気にざわめき始める。
その教授は、一般的な教授像とはかけ離れていたため、学生たちは皆驚いていた。
栞は驚いたまま、直也をじっと見つめる。
真っ黒に日焼けした肌、彫りの深い端正な顔立ち、そして緩くウェーブのかかった髪を後ろで一つにまとめるスタイルは昔のままだった。
「じゃあ、自己紹介代わりに質問でも受けようかなぁ。僕に質問がある人は挙手して!」
その言葉を受け、教室後方に陣取っていた華やかなグループの女子学生たちが、キャーッと歓声をあげながら一斉に手を挙げた。
直也はその中の一人を指名した。
「えっとぉ、先生は何歳ですかぁ?」
「34です。 じゃあ次はその横の人!」
「なんでそんなに日焼けしているのですか?」
「趣味がサーフィンだからでーす」
その答えに、教室内が再び騒めいた。現役サーファーの教授なんて、誰も見たことがない。
「じゃあ今度はそこの君」
「恋人もしくは奥様はいらっしゃいますか?」
「おいおい、全然心理学に関係ない質問ばっかりじゃん。えーっと、今のところ恋人も妻もいませーん」
直也がそう答えると、また女子学生たちから歓声があがった。
その熱狂ぶりにもまったく動じることなく、直也は今度、男子学生を指名した。
「もしかして、貝塚先生は心理学の本を何冊か出しているあの『kai』さんですか?」
ようやくまともな質問が飛んできたので、直也は「おっ!」という表情をしたあと、その問いに答えた。
「そうです。君は僕の本を読んでくれたんだね、ありがとう!」
直也が男子学生ににっこり微笑むと、その笑顔を見た女子学生たちが再びキャーッという歓声を上げた。
そのやり取りを見ていた愛花は、栞に向かってぽつりと呟く。
「なんか随分チャラいのが来たわねぇ…….」
「そ、そうだね……」
栞は戸惑いながら返事をした。
その後もしばらく直也への質問が続き、学生たちは直也が現役の精神科医であることを知った。
そして、30分ほど経過したあたりで、ようやく心理学の第一回目の講義が始まった。
コメント
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直也先生自分の栞ちゃんへの想いを本にしたのかしら?2人の歯車が動き出したね☝️
逢えない間に直也先生が執筆した本は、きっと栞ちゃんを想って書いたのだと思います📚️🍀✨ そして、いよいよ再会♡ ワクワクします🎶
栞ちゃん もう2年なんですね😳 その間栞ちゃんのために敢えて直接会わないででも本を2冊も出版して影から栞ちゃんを応援していた直也先生 入院した教授の代わりに登場しましたね 運命はやはり二人を合わせてくれた様ですね(*≧∀≦*) これから急接近する二人 この後ますます楽しみです😊