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十月二十四日の朝から、霧守町の空はずっと低かった。雨は前日夜から途切れたり戻ったりを繰り返し、山肌の色だけをじわじわ濃くしていた。昼過ぎ、花屋の店先でハヤが鉢物を内側へ寄せていると、守森神社の方からドゥシャンが息を切らして走って来た。
「山道、崩れた!」
その一言で、店の中の全員が止まった。
崩れたのは、旧放送小屋へ向かう中腹の細道だった。午前中に下見へ入っていた町外の夫婦と、役場の若手職員一人が、手前の広場で足止めされているらしい。大きな土砂ではないが、片側の地面が削れ、雨で足元がぬかるみ、無理に渡れば滑落の危険がある。
「消防へ連絡は?」
オブラスが確認する。
「した。けど、上の県道でも別の倒木対応してて、すぐは来られないって」
ドゥシャンの肩から雨粒が落ちる。
エルドウィンはもう倉庫の方へ向かっていた。
「ロープ持つ。板も」
マクスミリンがそれに続く。
「固定取れる場所、先に見ないと危ない」
ジョンナは地図を広げた。
「広場の横に、昔の導線用の杭跡があります。真柄蒼司の図面だと、避難待機に使っていた場所です」
ハヤの胸の奥で、電子辞書の画面がひらくような感覚がした。笑いながら回る導線が、こういう日のために折りたたまれていたのだと、理屈より先に体が思い出す。
ノイシュタットが雨合羽をひっつかむ。
「人を落ち着かせる係は要る」
「なら余計な言い回しは禁止です」
ハヤが言うと、彼は一瞬だけ笑った。
「努力する」
花屋は一時閉店の札を出した。エフチキアは店先の花を内へ入れ、濡れても困らない位置へバケツを寄せ、戻った時すぐ動けるように帳場を整える。
「私、下で待ってるだけじゃなくて、受付の紙も出しておきます。誰がどこにいるか、後で混ざると困るから」
「お願いします」
ハヤは答え、名札を付け直した。
午後二時十分、十人のうち七人が山道へ向かった。雨は細くなっていたが、木の葉から落ちるしずくが止まらない。石段を上がり、神社裏から山へ入ると、空気が一段冷たくなった。
崩れた場所は、思っていたより近かった。土の一部が抉れ、幅一メートルほどの道が半分なくなっている。向こう側の小広場に、人影が三つ。雨具の色だけがぼんやり見えた。
「こっちですかー!」
ドゥシャンが叫ぶと、向こうからすぐに手が振られた。無事だ。無事だが、気が急いているのが遠目でも分かる。
エルドウィンとマクスミリンが地面へ膝をつき、木の根と岩の位置を確かめる。ジョンナは図面と目の前の地形を見比べ、オブラスは消防と連絡を取りながら時間を詰める。
ハヤは崩落の縁へ立たず、一歩手前で呼びかけた。
「今、こっちで渡る準備をします。急がなくて大丈夫です。名前、順に確認します」
返事が三つ戻ってくる。名前が分かっただけで、少しだけ場が落ち着いた。
名を呼ぶことは、生き延びる技術だ。
あの電子辞書の言葉が、雨の匂いと一緒に胸へ戻って来た。
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