テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夏の終わり。午後の公園は人気がなく、蝉の声がすでに過去形になりかけていた。
「……こっち、空いてる」
日下部がぽつんと置かれた木製のベンチを指差した。遥は頷いて、黙ってその隣に座る。ジュースの缶がふたつ、手に汗をかいていた。
「こんなとこ連れてきて、期待してんの?」
冗談めかして遥が言う。日下部は少し目を泳がせてから、口の端だけを動かして笑った。
「いや……してない。……てか、できない」
「ふうん」
遥は缶のリングを指で弾きながら、視線だけで日下部の顔を追った。その頬の赤さは暑さのせいではない。遥は知っていたし、だからこそ意地悪をしたくなる。
「じゃあ、なんで手、さっきから近いの?」
そっと指先が、日下部の指にかすった。日下部の背筋がびくりと揺れる。すぐに手を引くのかと思ったが、意外にもそのまま、指先を重ねてきた。
「触れてたいだけじゃ、だめ?」
声が、熱を孕んでいた。遥は目を伏せる。日常で言われ慣れていたそれとは違う、まっすぐな言葉。
「……だめじゃないけど。勘違いすんなよ」
「しない。遥は……そういうの、苦手だろ?」
少しの沈黙が流れた。遥はベンチに片膝をのせて日下部のほうを向くと、至近距離でその目を覗き込んだ。
「オレのこと、知ってんだな」
「……知りたいと思ってるだけ」
不器用な言葉だった。だが、その不器用さが遥の頬を少しだけ熱くさせる。そっと伸びてきた手が、遥の髪の毛先に触れた。
「キス、していい?」
「……してみろよ」
挑発するように唇を尖らせる。だがその実、遥のまつ毛はわずかに震えていた。目を閉じると、温かく湿った気配が触れる。けれど日下部のそれは、驚くほど優しくて──ひどく、臆病だった。
「……なんでそんな優しいんだよ」
思わずこぼれた遥の声は、ほとんど呟きだった。日下部は答えない。ただ、肩にそっと腕をまわし、微かに力を込めた。
そのまま寄せられた身体が、ぎりぎりのところで止まる。
「……しないの?」
「したいけど、したくない」
日下部は額をくっつけるようにして言った。
「無理させたくないし、……遥のこと、全部そういう風に思ってるわけじゃないから」
「……全部、そういうふうに扱われてきたけどな」
遥の言葉は乾いていた。けれどそれを受けて、日下部が静かに告げた。
「オレは、違う」
言い切るように。宣言するように。遥はその声に少しだけ息を詰め、そして自分から、唇をもう一度重ねた。
今度は、長かった。
蝉の声が、遠くでひとつだけ鳴いて、すぐに止んだ。