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来華
90
#mlmk
I am 壁 @自給自足
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#だてなべ
ゆー
5
高校二年生の春。
放課後。
紬は教室に残っていた。
周りの生徒たちは、もうほとんど帰っている。
机の上には、提出するプリント。
紬は名前を書く。
一文字ずつ。
最後まで書いて、ペンを置く。
「……紬」
自分の名前を小さく呼んでみる。
何かがおかしいわけじゃない。
ずっとこの名前で生きてきた。
家族も。
友達も。
学校も。
みんな、この名前で自分を見る。
それなのに。
最近、時々思う。
この名前で呼ばれるたびに、自分が少しだけ遠くなるような感覚。
「紬」
後ろから声がした。
振り返る。
悠生だった。
「まだいたんだ」
「うん。プリントやってた」
「蒼真は?」
その名前を聞いて、紬は少しだけ黙った。
「知らない」
「そっか」
悠生は蒼真の席を見る。
誰もいない。
「先帰ったのかな」
「たぶん」
それだけ。
悠生は鞄を持った。
「帰る?」
「うん」
二人で教室を出る。
廊下を歩く。
紬は窓に映った自分を見る。
制服。
短めの髪。
いつもの自分。
でも。
なぜか、その姿を見ると少しだけ違和感がある。
悠生が気づく。
「どうした?」
「何が?」
「さっきから窓見てる」
「……別に」
紬は視線を逸らした。
「俺さ」
「うん」
「変なのかな」
悠生が歩みを緩める。
「急にどうした?」
「いや」
紬は少し考える。
言葉にしようとすると、全部違う気がする。
「可愛い服とか、そういうのが好きってわけじゃないんだけど」
「うん」
「女の子として見られたら、どうなんだろうって思うことがある」
悠生は黙って聞いている。
「でも、別に男が嫌いってわけでもない」
「うん」
「だから、自分でもよく分からない」
悠生は少し考えてから言った。
「分からないままでもいいんじゃない?」
「……いいのかな」
「今すぐ決めなきゃいけないことじゃないだろ」
紬は黙る。
「そういうの、名前つけないと駄目なの?」
「分かんない」
「俺も分かんない」
二人とも少し笑った。
でも。
紬の胸の奥にあった違和感は消えなかった。
帰宅すると、蒼真がリビングにいた。
「ただいま」
「おかえり」
それだけ。
昔みたいに「遅かったな」とも言わない。
紬も、蒼真の隣に座らない。
少し離れたところに鞄を置く。
蒼真はスマホを見ている。
紬は何気なく、その横顔を見る。
昔。
蒼真はもっと髪が長かった。
小さい頃は、自分よりずっと女の子みたいだった。
紬はずっと、それを当たり前だと思っていた。
兄が女の子みたいだったから。
いつか自分もそうなれると思っていた。
でも。
蒼真は変わった。
髪を切って。
服装も変わって。
話し方も変わって。
いつの間にか、男らしくなった。
紬はずっと、それを「成長」だと思っていた。
けれど。
最近になって。
本当にそうだったのか、分からなくなってきた。
「蒼真」
「ん?」
「昔さ」
蒼真が顔を上げる。
「俺、何か言ってた?」
「何かって?」
「……女の子になりたいとか」
蒼真の表情が止まった。
ほんの一瞬。
それから。
「覚えてない」
「そっか」
紬はそれ以上聞かなかった。
蒼真も何も言わない。
でも。
その空気だけが、妙に重かった。
夜。
紬は自分の部屋で、昔のアルバムを開いていた。
小さい頃の写真。
三人で並んでいる。
悠生。
蒼真。
自分。
蒼真の髪は長い。
紬はその隣で笑っている。
写真の中の自分を見ていると、不思議な気持ちになる。
あの頃の自分は。
何も疑っていなかった。
蒼真みたいになれると思っていた。
女の子になれると思っていた。
そのうち自然に。
いつか。
何かのきっかけで。
でも。
そんな日は来なかった。
気づけば、自分は高校生になっていた。
「……俺、何になりたいんだろ」
答えは出ない。
ただ。
男として生きたい、とも思えない。
女の子として生きたいと思う気持ちは、ずっと消えなかった。
でも、それを誰かに言うのは怖かった。
自分でも説明できないものを。
誰かに説明できるはずがない。
アルバムを閉じる。
同じ頃。
蒼真は自分の部屋にいた。
机の引き出しを開ける。
古い箱を見る。
その上に、手を置く。
今日。
紬が言った。
「女の子になりたいとか」
あの言葉が頭から離れない。
蒼真は目を閉じる。
昔の自分。
長い髪。
笑い声。
あの日。
そして。
紬。
「……やめろよ」
誰もいない部屋で呟く。
紬に言ったわけではない。
自分に言ったのかもしれない。
昔と同じ道を歩いてほしくない。
あんな思いをしてほしくない。
だから。
止めなきゃいけない。
そう思っている。
でも。
どうしてそう思うのかを説明することはできない。
箱の中にあるものを。
蒼真はまだ誰にも見せられなかった。
コメント
1件
「分からないままでもいい」という悠生の言葉が、すごく沁みました。紬が自分の名前を呼んでみる冒頭の静けさも、蒼真の机の引き出しの箱の重みも、どちらも同じ家にいながら言葉にできない距離を描いていて切なかったです。何かにならなきゃいけないわけじゃない、ってそっと背中を押された気持ちになりました。続きがすごく気になります🌷