暴力の形が、少しだけ変わった。
殴る。蹴る。
それ自体は前と同じだが、そこに言葉の向きが加わった。
「お前さ、日下部いなかったら、もう終わってたよな」
図書室横の通路。
人の通らない時間帯を、彼らは正確に知っている。
遥の腹に拳が突き込まれる。
息が喉の奥で詰まり、音にならない。
「……っ」
倒れかけたところに、足が引っかかる。
体が前に落ち、床に肘をぶつけた。
すぐ追撃が来る。
背中。脇腹。脚。
「可哀想だよな、日下部」
「善人ぶって、こんなの庇ってたんだぜ?」
“庇ってた”。
その過去形が、遥の胸を鈍く打った。
「捨てられて当然だろ」
「重すぎ」
遥は歯を噛みしめる。
言い返せない。
だが、頷くこともしない。
それが苛立ちを生む。
「無言の反抗? きっつ」
「まだ期待してんの?」
腹に一発。
今度は深い。
視界が一瞬白くなる。
――違う。
――期待してるわけじゃない。
ただ、勝手に“善意”を汚されるのが耐えられないだけだ。
そこへ、遅れて足音が一つ。
「お、やってるね」
蓮司だった。
止めない。
むしろ、状況を自然に“受け取る”。
「最近さ」
蓮司は、まるで雑談の続きのように言う。
「日下部、ああいうの気にするタイプじゃないって思われてるよ」
誰かが笑う。
「だろ?」
「あいつ最近、完全スルーだもんな」
遥の視線が、反射的に浮く。
だが、誰もそこに日下部を連れてこない。
蓮司は続ける。
「俺もさ、あいつ無理させたくないんだよね。 優しい奴ほど、線引き覚えないと壊れるし」
その“配慮”は、この場の誰にも否定されなかった。
「だから、まあ」
蓮司は肩をすくめる。
「ほどほどにしときな。
日下部が可哀想だし」
魔法みたいな一言だった。
暴力が、説明を持った。
殴る理由が、遥ではなく日下部のためになる。
「……だよな」
「日下部のためだわ」
一発、最後の蹴り。
遥の脇腹に入って、体が横に転がる。
「今日のとこは、こんなもんで」
去っていく足音。
蓮司も混ざり、廊下が元の静けさを取り戻す。
遅れて――
日下部が、角から姿を現した。
遥は顔を上げなかった。
上げる理由が、もうなかった。
「……大丈夫か」
日下部の声。
遅い。
遥は答えない。
沈黙が、二人の間を埋める。
「無理して言わなくていい」
日下部は、少し急いでそう続けた。
「俺、関わらないって決めたから」
それは宣言だった。
逃げではなく、選択だという顔。
遥は、床を見たまま、小さく息を吸う。
痛い。
まだ、かなり。
それでも。
「……分かってる」
声は低く、掠れていたが、はっきりしていた。
日下部の肩が、ほんの少し緩む。
「そうだろ。
お前も、大人になったほうがいい」
その言葉が、遠くで何かを断ち切った。
日下部は去っていく。
その背中を、遥は見ない。
見る価値がなくなったのではない。
見てしまえば、きっと何かが壊れるからだ。
残された階段裏で、遥はゆっくり体を起こす。
腹の奥が軋む。
呼吸が浅い。
それでも――
胸の内側で、静かに燃えるものがある。
これは、日下部のためじゃない
俺を使った、正当化だ
理解してしまった分だけ、心が冷える。
蓮司は、廊下の先で日下部と並び歩いていた。
「さっきさ。
上手く距離取れてたじゃん」
褒めるような声。
日下部は、少し黙ってから答える。
「……仕方ない」
その一言で、完全だった。
蓮司は笑わない。
ただ、決定事項を確認する。
責任は、完全に移った。
あとは、切るタイミングを選ぶだけ。






