相談室に入ってきた生徒は、椅子に座ってからもしばらく口を開かなかった。
遥は急かさない。机越しに視線を置いたまま、沈黙が自然に落ち着くのを待つ。
「……誰かに何か言われたわけじゃないんです」
やっと出てきた声は、小さく、言い訳の形をしていた。
「怒られたとか、責められたとか、そういうのはなくて。でも……ずっと、責められてる気がする」
生徒は自分の膝を見つめたまま続ける。
「クラスでも、家でも。誰も俺に直接は何も言わない。でも、俺だけ遅れてる気がして。ちゃんとできてない気がして。笑ってても、“今それでいいの?”って、頭の中で誰かが言ってる」
遥は、その“誰か”が実在しないことを指摘しない。
それがいちばん現実的な加害者だと、知っているからだ。
「テストの点も普通。友だちもいるっちゃいる。特別困ってるわけじゃないのに……何かするたび、勝手に減点されてる感じがするんです」
生徒は息を詰める。
「サボったわけでもないのに、“もっと頑張れたよな”って思うし。楽しんだ日は、“その分、何か失ってる”気がして。結局、何してても落ち着かない」
遥は指先を組んだまま、低く言った。
「……それ、“何も言われてない”んじゃなくて、もう自分の中に残ってるだけかもしれないな」
生徒が少しだけ顔を上げる。
「昔、言われた言葉とか。見られ方とか。誰かの期待とか。……全部、今は誰も言ってないのに、残る」
遥の言葉は説明的だが、断定しない。
生徒の表情が、否定ではなく理解の方向に動くのを待つ。
「俺さ、自分が何かするたびに、“これでいい?”って確認しちゃうんです。誰に聞いてるわけでもないのに。OKが出ないと、動けなくなる」
「それ、癖になる」
遥は静かに言った。
「誰かに否定され続けたあとだと、“否定されない状態”が逆に怖くなる。何も言われない=見放された、って感じるやつもいる」
生徒の肩がぴくりと揺れた。
「……俺、贅沢ですか」
「違う」
即答だったが、強くはない。
「ちゃんと傷が残ってるだけだ。目に見えないだけで」
相談室の空気が少しだけ変わる。
生徒は深く息を吸ってから、ゆっくり吐いた。
「じゃあ、どうしたらいいんですか」
「全部止めなくていい」
遥は視線を逸らさずに言う。
「“責める声”が出てきたら、消そうとしなくていい。ただ、“今は誰も言ってない”って事実だけ、横に置く」
生徒は考えるように黙り込む。
「責める声って、なくなるまで時間かかる。でも、それが出てきたからって、従わなくてもいい。聞こえても、決定権は渡さなくていい」
生徒の口元が、ほんの少し緩んだ。
「……言われてないのに、苦しいのって、俺だけだと思ってました」
「違う」
遥はそれ以上、言葉を足さなかった。
十分だと分かっているからだ。
生徒は立ち上がり、扉の前で一度だけ立ち止まった。
「……また、来てもいいですか」
「必要なら」
それだけ答える。
扉が閉まり、相談室に静けさが戻る。
遥は机に残った空気を見つめながら、次にここへ来る誰かの沈黙の重さを、すでに受け取る準備をしていた。
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