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校門に近づくほど、身体の痛みは逆に薄れていった。
痛覚が麻痺したわけではない。
“家よりマシだ”と脳が勝手に判断していくのだ。
だが、校舎に入った瞬間、その幻想はすぐに壊れた。
ざわり、と空気が変わる。
廊下の視線がひそかに集中する。
理由は単純だ。“いつもの朝の儀式”が始まるからだ。
「おい、来たぞ」
誰かの声がした。
遥は歩調を変えずに進む。立ち止まれば“見ている側”が勝手に寄ってくるから。
曲がり角で、男子が三人、壁にもたれて待っていた。
その並び方があまりに自然で、教師すら気づかない。
「おはよ、奴隷」
肩を軽く小突かれただけで、背中に昨夜の痛みが閃いた。
声を上げれば終わる。
だから、息を呑むだけにした。
「昨日、帰るの早かったな。兄弟に何か“教わった”?」
ひやり、と汗が背筋を走る。
兄弟のことは誰にも言っていない。それでも、彼らは勘で嗅ぎ分ける。
「……別に」
遥の声は低く、掠れていた。
それを聞いた一人が鼻で笑う。
「まあ、いいや。今日の担当は女子だってよ。おまえの“査定”次第で内容変わるから、ちゃんとやれよ?」
軽い調子。
だが、この“担当”がどれほど陰湿で制度的かは、遥が一番知っている。
殴られるのはまだ楽だ。
人前で人格を消されるほうが、家より深く傷を残す。
しかし、今日の彼らはそれ以上は手を出してこなかった。
理由はすぐわかる。
階段の下で、日下部が待っていた。
制服のポケットに手を突っ込み、何気ない顔をしているが、視線だけは遥を捉えて離さない。
――袖をつまんでしまった相手。
逃げたい、と思った。
だが足は止まらない。止まれない。
背後の連中が“見ている”から。
日下部の前に立ったとき、遥は普通を装った。
「……おはよう」
その声が自分でも驚くほど弱かった。
痛みではなく、“昨夜の言葉”が喉の奥にまだ残っているせいだ。
日下部は一瞬だけ眉を寄せた。
遥の眼の下の腫れと、背中を庇うわずかな癖に気づいている。
「また……何かあった?」
「何もねぇよ。見んな」
遮るように言った。
あの袖をつまんだ自分が、また何かを求めるように見えるのが怖かった。
日下部は言い返さなかった。
ただ、横を歩き始める。
その歩幅は、遥の痛みを読んだかのようにいつもより少しだけ遅い。
階段を上がる途中、背後で笑い声が起きた。
「ほら見ろよ。今日も“番犬”付きかよ」
「守ってんの? 気持ちわる」
「弱ぇやつは弱ぇやつ同士で群れるんだな」
遥は振り返らない。
どれだけ嘲られても、反応すれば“遊び”が始まるから。
ただ、日下部だけが小さく言った。
「……気にすんな」
「気にしねぇよ」
本当は、言葉の意味すら理解しないようにしている。
“気にした瞬間、昨日の夜が蘇る”から。
教室に入ると、女子たちが一瞬だけ遥を見た。
その目の奥に、今日の“役割分担”がすでに決まっている気配がある。
それを察した日下部が何か言おうとした瞬間、遥が先に言った。
「……大丈夫だ。何もさせねぇよ。
昨日……教わったから」
その言葉の“昨日”が、家なのか学校なのか、日下部には判別できなかった。
だが遥の声には、どちらの意味も等しく滲んでいた。
そしてチャイムが鳴った。
今日も、地獄が始まる。