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夜のスタジオは、原点だった。
最初に二人きりで話した場所。
最初に“見られている”と自覚した空間。
泉にとって、仕事と境界が曖昧になった始まり。
照明はすべて落ちていて、
非常灯の淡い光だけが、床と機材の輪郭を浮かび上がらせている。
泉は中央に立っていた。
呼ばれたわけではない。
でも、来ると分かっていたように、柳瀬はそこにいる。
「来たな」
それだけ。
問いでも確認でもない。
「……はい」
泉の声は静かだったが、身体は正直だ。
一歩近づくたび、神経が研ぎ澄まされていく。
柳瀬は正面に立つ。
距離はもう、“触れない”前提ではない。
「昨日言ったな」
低い声。
「続けるか、終わるか」
泉は目を逸らさなかった。
逃げる理由も、迷う言葉も、もう残っていない。
柳瀬の指が伸びる。
首筋に触れた瞬間、身体がびくりと揺れた。
逃げでも拒絶でもない、
条件反射に近い反応。
「……っ」
「相変わらずだな」
指は強くならない。
だが、確実にそこに留まり、離さない。
「反応が早い」
喉元をなぞるように、ゆっくりと。
泉は息を乱しながら、唇を噛む。
「……続けるって」
言葉が震える。
「どういう、意味ですか」
柳瀬は一拍置いてから答える。
「今まで通りだ」
指が顎にかかり、顔を上げさせられる。
「好意じゃない。独占もしない」
視線が、逃がさない。
「利用だ」
泉の胸が、強く上下する。
「……それでも?」
「それでも欲しいなら、続ける」
柳瀬の手が、首から肩、背中へと回る。
押し倒すほど強くはないのに、
立っていられなくなるような圧だった。
泉は、抵抗しなかった。
その代わり、自分から一歩近づく。
胸と胸が触れる。
「……続けたい、です」
小さな声。
しかし、嘘はなかった。
柳瀬の指が、シャツの上から背を辿る。
確かめるように、何度も。
「……覚悟は?」
「もう、決めました」
その返事で十分だった。
柳瀬は泉の首元に顔を寄せ、
ためらいなく肌に触れる。
直接。
もう、境界はない。
泉は声を押し殺すことができず、
柳瀬の肩に手を置いた。
掴むほど強くはない。
だが、離れない。
——主導権は渡さない。
そう言われたはずなのに、
それでも触れずにはいられなかった。
柳瀬は一瞬だけ静止し、
泉の耳元で低く囁く。
「……反応しろ。考えるな」
その言葉に、泉の中の最後の理性が外れた。
それ以上のことは、
明かりの落ちたスタジオに溶けていく。
どれくらい時間が経ったのかは分からない。
泉は床に座り込み、壁に背を預けていた。
呼吸がようやく落ち着き、
身体に残る余韻が、まだ熱い。
柳瀬は少し離れた場所で立っている。
触れない距離。
だが、関係が戻ったわけではない。
「終わりだ」
それだけ告げる。
「……はい」
泉は立ち上がる。
足はまだ少しふらつくが、歩ける。
出口へ向かう前、振り返って言った。
「……次は、いつですか」
柳瀬は少し間を置き、答えた。
「必要になったら呼ぶ」
それで十分だった。
愛じゃない。
約束でも救いでもない。
それでも、確かに続く。
泉は頷き、スタジオを出る。
背後で扉が閉まる音がする。
原点に戻り、
それでも前より深い場所へ。
——“契約”は更新された。
終わる理由が見つかるまで。
完