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相談者は、椅子に腰を下ろしてからもしばらく口を開かなかった。
拳を握ったまま、ほどくタイミングを失っているようだった。
「……一番怖いのはさ」
やっと絞り出された声は、低く掠れていた。
「“被害者ぶるな”って言われることなんだ」
遥は表情を変えず、その言葉を受け取った。
「実際に何か言われたわけじゃない。でも、そう思われてる気がして」
相談者は視線を落とす。
「ちょっと元気ない顔したら、“まだ引きずってるの?”って空気になるし。何も言わなくても、“被害者ポジションに甘えてる”って思われそうで」
喉が動く。
「だから、なるべく普通でいようとする。弱ってないふりをする。でも、そうすると今度は——」
言葉が詰まる。
「“じゃあもう大丈夫だよね”って扱いになる」
堂々巡りだった。
遥は、少し間を置いてから言った。
「被害に遭った側は、二重に沈黙を強いられる」
相談者が顔を上げる。
「一度は、力で黙らされる。もう一度は、“空気”で黙らされる」
遥の声は低い。
「苦しみ続けると、“しつこい”。立ち直ったふりをすると、“もう平気”扱い。どこにも正解がない」
相談者は、苦笑いにもならない表情で息を吐いた。
「被害者って言葉、嫌いなんだ」
呟くように言う。
「なんか……弱いタグみたいでさ。貼られた瞬間、全部それで決まる感じがする」
遥は静かに言った。
「“被害者っぽい”って言葉が怖いのは、弱さそのものじゃなくて、“決めつけ”が怖いからだ」
相談者の指先が、わずかに動いた。
「苦しんでる理由も、経緯も、全部省略されて。“ああ、そういう人ね”で終わらせられる」
遥は続ける。
「だから、“被害者でいるな”って圧が生まれる。でもそれは、回復を促してるんじゃない。“都合よくなれ”って言ってるだけだ」
部屋に静かな沈黙が落ちる。
「俺さ」
相談者は小さく言った。
「何も言わずに、忘れたふりして、生きられるなら楽だと思う。でも——」
唇を噛む。
「忘れてない自分を、裏切る気がして」
遥は、ゆっくり頷いた。
「忘れられないのは、弱さじゃない」
相談者の眉が僅かに動く。
「自分の経験を、“なかったことにしない”って選択だ」
その言葉に、相談者は息を止めた。
「被害者でいることを、恥だと思わなくていい」
遥の声は淡々としていたが、芯があった。
「恥なのは、傷を与えたことだ。傷を負ったことじゃない」
相談者は、目を伏せたまま、しばらく動かなかった。
「……でもさ」
震えた声が漏れる。
「被害者っぽいって見られるの、ほんとに怖い。距離置かれるし、扱いづらそうにされる」
「それは事実だ」
遥は否定しない。
「この世界は、傷ついた人にまで“機嫌よく立ち直れ”を求める」
相談者は肩を強ばらせた。
「じゃあ、どうすればいい」
遥は、言葉を選ぶように間を置いた。
「被害者かどうかを、他人に決めさせるな」
相談者が、ゆっくり顔を上げる。
「回復のペースも、出した表情も、選択も——自分のものだ。説明できなくてもいい。理解されなくてもいい」
遥は、静かに続けた。
「“被害者っぽい”って言葉が浮かんだ瞬間、自分に言え。“俺は俺の時間を生きてる”って」
相談者は、深く息を吸って、吐いた。
「……それでも、怖い」
「怖くて当然だ」
遥は短く言う。
「恐怖があるままでも、生きていい。堂々とする必要はない。縮こまってても、黙ってても、被害は消えないし、価値も減らない」
相談者の肩から、少し力が抜けた。
「被害者って言葉を嫌ってる自分も、たぶん……」
「生き延びた側だ」
遥はそう締めた。
世界は相変わらず、回復を急かし、沈黙を美徳にする。
それでも、この部屋では、“被害者でいることの怖さ”そのものが、否定されなかった。
相談者は立ち上がる前に、小さく頷いた。
今日ここで得たものは、答えじゃない。
ただ、“間違っていない”という感覚だけだった。
それで十分な日も、確かにある。