相談室に入ってきた相談者は、少し遅れて椅子に腰を下ろした。
座った瞬間、深く息を吸って、それから吐いた。まるで胸の奥に溜め込んでいた息を、やっと外に出せたみたいに。
「……あいつらさ」
視線は床の一点に落ちたままだった。
「普通に笑ってんだよ。俺がいないところで」
遥は、急かさない。視線を逸らすこともない。
「学校でも、放課後でも、SNSでも。楽しそうでさ。友達も多くて、先生にも可愛がられてて」
相談者は、喉の奥で言葉を一度噛み殺した。
「俺を殴ったことも、笑ったことも、何もなかったみたいに」
拳が、スラックスの上で固く握られる。
「それが一番、きつい」
遥はゆっくりと頷いた。
「“傷つけたまま幸せでいる人間を見せつけられる苦しさ”だな」
相談者のまぶたが、わずかに震えた。
「……それを誰かに言うとさ、“もう関係ないじゃん”って言われる」
自嘲めいた笑いが漏れる。
「“今さら気にするな”とか、“考えすぎ”とか。加害者の人生まで気にするのおかしいって」
遥は静かに口を開いた。
「関係が切れても、記憶は切れない」
それだけだった。でも、相談者の肩が小さく揺れた。
「向こうはさ、もう“終わってる”んだよ」
相談者は言葉を重ねる。
「過去のちょっとした出来事、くらいの扱いで。でも俺は、まだその時間の中に引っかかってる」
声音が低く沈む。
「時間がずれてる感じがする。俺だけ、まだあの頃に置いてかれてる」
遥は、しばらく沈黙したあと、ゆっくり言った。
「加害者が幸せそうに見えるとき、人は二重で苦しむ」
相談者が顔を上げる。
「一つは、奪われたもの。時間とか、安心とか、自尊心とか」
遥は指を折らず、淡々と続ける。
「もう一つは、“報われなさ”だ。苦しんだ自分より、傷つけた側の人生がうまく回ってるように見える理不尽」
相談者の唇が、かすかに歪む。
「……俺の方が、間違ってたみたいだろ」
その言葉には、怒りよりも疲労が滲んでいた。
「なんで俺だけ、こんな顔して生きてんのか分からなくなる」
遥は即答しなかった。
その代わり、短く息を吐く。
「向こうが幸せそうなのは、加害が“なかったこと”になってるからだ」
相談者が、微かに目を見開く。
「忘れたんじゃない。整理もしてない。ただ、都合よく切り捨てただけだ」
遥の声は低く、一定だった。
「罪悪感を持たずにいられる人間ほど、軽く生きてるように見える」
沈黙が落ちる。
「……でもさ」
相談者は呟いた。
「それ知ったところで、俺が楽になるわけじゃない」
「ならない」
遥ははっきり言った。
「理屈で納得できる苦しさじゃないからな」
相談者は、少し意外そうに遥を見る。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
遥は、机の木目に視線を落とした。
「“比べるな”とか、“忘れろ”は無理だ」
その言葉に、相談者はわずかに頷いた。
「だから、“向こうの幸せ”を基準にしない」
遥は言葉を慎重に選ぶ。
「幸せそうに見える姿は、答えでも結論でもない。ただの“隣の現実”だ」
相談者は眉をひそめる。
「それでも、目に入る」
「入る」
遥は否定しない。
「入ってきて、腹が立って、悔しくなって、惨めになる。それでいい」
相談者の呼吸が、少し荒くなる。
「感情が出るのは、壊れてない証拠だ」
その一言で、相談者の目が揺れた。
「苦しんだのに、何も感じなくなったら終わりだ。“あいつらだけ幸せ”って怒れるのは、まだ自分を見失ってない」
相談者は、ぐっと歯を食いしばる。
「……じゃあ、俺はこのまま嫉妬して、憎んで、生きてくしかないのか」
遥は、少し首を振った。
「それだけじゃない。ただ、“今はそういう感情がある場所にいる”って認めるだけだ」
部屋の空気が、ほんの少しだけ緩む。
「幸せそうな加害者を見るたびに、自分を責めるな」
遥は続けた。
「苦しんでる自分の反応は、正常だ。歪んでるのは世界の方だ」
相談者は、深く息を吐いた。
「……ずっと、俺の方がおかしいと思ってた」
「違う」
遥は短く答えた。
「被害に遭って、平然としていられる方が異常だ」
相談者の肩が、ゆっくりと下がった。
「笑ってる側の世界は、眩しく見える」
遥は最後に言った。
「でも、そこに自分の居場所がなかったとしても、それは敗北じゃない」
この世界は不公平で、理不尽で、答えも用意されていない。
それでも、“苦しんでいる自分が間違っていない”と誰かに言ってもらえるだけで、呼吸は少しだけ楽になる。
相談者は、立ち上がる前にもう一度、深呼吸をした。
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