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教室のドアを開けた瞬間、空気が変わったのがわかる。湿った泥のような笑い声が、天井から垂れ込めていた。
「……あ。来た」
誰かがつぶやいた。声の主を探さなくても、クラス全体が一斉に微細にざわつくのを、肌で感じ取ってしまう。背中に無数の針が刺さるような感覚。椅子を引く音、鞄を床に落とす音、教科書をめくる音。全てがわざとらしくて、“自分がここにいること”だけを際立たせる。
席に向かう途中、男子が一人、足を投げ出して進路を塞いでいた。遥はそれを避けようとしたが、あからさまに肘で小突かれ、バランスを崩した。
「うわ、触んなよ。汚ねぇ」
彼の声に反応するように、周囲の女子たちがくすくすと笑う。
「朝から性欲ですか〜?」「発情期?」
遥は言い返さない。言葉を呑み込むのではない。もはや“発する”という回路が焼き切れている。
教師が入ってきても、状況は変わらない。むしろ教師自身が空気の一部になっていた。
遥が音読を求められる。立ち上がろうとすると、誰かが背後から机を蹴った。机が前に押され、足が引っかかる。前のめりに倒れかけた遥の声は、かすれた。
「……えっと……」
「声小さくな〜い?」
「やる気ないなら、消えれば?」
教師は板書を続けたまま、こちらを見ない。
読めと言われたはずの一節が、教科書の中で文字の海になって揺れていた。
頭の中が真っ白になる。視界の端で、スマホのレンズがこちらを向いていた。
昼休み。
「今日も“餌やり”タイムでーす」
給食が配膳されると、男子数人が遙の席の周囲に集まる。
「これ、お前にぴったりじゃね? 残飯」
「俺の唾もサービスでつけといたから」
「どうせ食わせてもらってんだろ? 家で」
彼らの笑い声の向こうで、女子の一人が耳打ちする。
「ほら、脱げって言われたら脱ぐタイプでしょ。そういう顔してるもん」
遥は給食に手をつけない。空腹かどうかすら、わからない。
グラウンド。着替えの前、女子たちの視線が突き刺さる。
「見ちゃダメよ〜?性犯罪者だから」
「盗撮しそう。下着とか」
「パンツって履いてるの? 履いてないって噂あったけど」
何も言えないまま、体操服に着替える。更衣室の隅に身体を縮こまらせながら。
男子の一人がスマホを掲げ、わざとらしく遥に向けてシャッター音を鳴らした。
美術。
グループワーク。だが、遥の机だけに誰も近づかない。
教師が言う。
「協力して描くのも作品の一部だぞ」
すると女子の一人が手を挙げて言った。
「無理です。あの子と“共同”とか、怖いし不潔」
教室が、しんと静まった。だが、それは遥のための沈黙ではなかった。
冷たく、よそよそしい“同意”だった。
帰りのHR直前。
誰かが机の中に何かを押し込んでいた。異臭。生ゴミ。
ぐちゃぐちゃになったパンくずと、何か腐った液体。
机を引くと、それが遥の制服の袖に付着した。
ざわ…とクラスが反応し、一人の男子が立ち上がる。
「さあ〜、今日の“汚物処理”タイムです」
「やるよな?逃げんの?」
「まじで無視するなら、ホンモノのゴミだってことにするぞ?」
遥の手が、小刻みに震える。袖についたそれを必死にこすろうとする指先。
声が出ない。目の奥が焼けるように熱い。
――何も聞こえない。
耳鳴り。心臓の鼓動。
吐き気。誰かが笑っている。
「やめてよ……っ」
遥がそう呟いた瞬間、クラスの時間が止まったように静まり返る。
「……もう……やめて……っ……おねがいだから……」
嗚咽が混じる。声にならない声。
手で顔を覆う。鼻水と涙が混ざる。
机の上にそれが落ちて、小さな“音”になった。
「決壊した〜」
誰かがそう言った。
笑い声が広がる。
それは、「終わり」ではなく「合図」だった。
――遥にとっての“日常”が、さらに深化していく、その始まりの。