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翌朝。
転入手続きのため、湊は母校でもある市立高校の昇降口をくぐった。
廊下にはワックスの甘い匂い。朝のざわめきは、どこか懐かしく、けれど心は妙に落ち着かない。
職員室で担任への挨拶を済ませ、案内されたのは三年二組。
ドアを開けると、一斉に向けられる視線に息が詰まる。
――その中に、ひときわ目を引く背中があった。
机に片肘をつき、窓の外を見ている。
乱れた制服。亜麻色に染めた髪。
振り返ったその顔に、湊の時間が止まった。
「……陸」
小さく漏れた声に、本人は気づいたのかどうか。
陸はほんの一瞬、目を細めた。
その視線が鋭く胸を刺す。
懐かしさよりも、まず浮かんだのは戸惑いだった。
「えー、今日から転入してきた真白湊くんだ。仲良くしろよ」
担任の紹介が教室に響く。
拍手の中、陸だけが手を動かさない。
湊は無意識に目を逸らした。
――昔は、笑えばえくぼができて、よく一緒にくだらない話をしたのに。
空席に腰を下ろしても、鼓動の速さは収まらなかった。
ちらりと横を見ると、陸が不意にこちらへ視線を送ってきた。
昔と同じ茶色の瞳――でも、奥にあるものが違う。
湊は思わず息をのむ。
休み時間、机の周りに数人のクラスメイトが集まる。
「どこから来たの?」
「東京? いいなあ」
軽い質問に答えながらも、湊の意識はずっと隣にあった。
やがて陸が立ち上がる。
その動きに、周囲の空気がわずかに変わる。
仲間らしき男子が「コンビニ行こーぜ」と声をかけるが、陸は軽く首を振り、湊の机に近づいた。
「……真白、だよな」
低く落ち着いた声。
湊は思わず背筋を伸ばす。
「ひさしぶり、陸」
返した言葉は、自分でも驚くほど震えていた。
陸は短く息を吐き、目を細める。
「……都会の匂い、するな」
それだけ言って、肩をすくめると踵を返した。
廊下の光の中に、その背中がゆっくりと溶けていく。
――何を話せばいい。
胸の奥に、幼いころの思い出が次々と浮かぶ。
夏祭りで一緒に食べたかき氷。川沿いで見た花火。
けれど、その記憶の一枚一枚の上に、現在の彼の輪郭が重なり、霞んでいく。
放課後。
昇降口で靴を履き替えながら、湊は窓越しに校庭を見た。
夕焼けに染まるグラウンドの端、陸が一人でバイクを押して歩いている。
その横顔は、かつての笑顔を閉ざしたまま。
「……また、話せるのかな」
独り言が夕方の空に消える。
過去と現在の落差は、想像していたよりも深く、痛かった。
それでも湊の胸の奥で、かすかな希望だけが、静かに息づいていた。