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瑠璃マリコ
40,523
桃下結衣
954
自宅の最寄り駅で降りた二人は、マンションへ向かって歩き出した。
途中、透也がふいに左へ折れる細い道へ入っていく。
「こっちにあるんですか?」
「うん。住宅街の中にある、ちょっと洒落た蕎麦屋なんだ」
「へぇ……」
しばらく歩くと、沈んだ夜の闇の中に、ぽつりとオレンジ色の灯りが浮かび上がった。
「あそこですか?」
「そうだよ」
店は住宅街の角地にあり、蔵を改装した趣のある外観だった。
軒先に吊るされた提灯が、温かな光を揺らしている。
「わあ……素敵」
「なかなかいいでしょ?」
透也は暖簾をくぐり、夏帆もそのあとに続いた。
「いらっしゃいませ! 二名様ですね。どうぞ、お好きなお席へ」
店主の妻と思われる高齢の女性が、柔らかな笑顔で迎えてくれる。
透也は「どうも」と軽く会釈し、一番奥のテーブルへ夏帆を案内した。
向かい合って座ると、透也がメニューを差し出す。
「何がおすすめですか?」
「うーん、やっぱり天ぷら蕎麦かな」
「じゃあ、それにします。あ、冷たいお蕎麦で」
「了解」
透也は店員を呼び、天ぷらがセットになった天ぷら蕎麦を二つ注文した。
おしぼりで手を拭きながら、透也がさりげなく尋ねる。
「仕事初日はどうだった?」
「緊張しましたが、皆さんいい人で……ほっとしました」
「それならよかった」
安心したようにうなずく透也の仕草を見て、夏帆は胸の奥がじんと温かくなる。
(もしかして……初出勤で緊張していた私をリラックスさせようと、この店に誘ってくれた?)
そんな気がした。
透也は、三木谷エステートの妹夫婦を気遣うように、夏帆のことも心配してくれているのかもしれない。
そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
(どこまでも親切で、面倒見のいい人なんだか……)
思えば、駿介と別れてからというもの、透也にはずっと助けられてばかりだ。
新しい住まいのこと、写真集のこと、そして転職先でも……。
そう考えると、夏帆は透也に頭が上がらない気持ちになる。
そのとき、透也が思い出したように言った。
「そうそう。佐伯さんが写真集送ったって言ってたよ。じきに俺のところに届くと思うから、来たら渡すね」
「ありがとうございます。あの……代金はお支払いしますから」
「いいって言ったでしょ。それに、俺が佐伯さんに払おうとしたらいらないって突っぱねられたんだ。だから、ありがたく受け取ればいいよ」
「すみません……。いつもお世話になってばかりで……」
恐縮する夏帆に、透也が笑って言う。
「じゃあさ、うちの会社の初給料が出たら、またここに来よう。そのときは、夏帆ちゃんにごちそうしてもらうから」
「ええっ! だったら今日、ごちそうさせてください」
「だーめ。今日は俺が誘ったから俺が払うの~」
「でも、それじゃあ……」
ちょうどそのとき、店主の妻がにこにこと笑顔を浮かべながら料理を運んできた。
「お待たせしました~。どうぞごゆっくり」
伝票を置くと、女性はすぐにバックヤードへ戻っていった。
目の前の美味しそうな天ぷらと蕎麦を見て、夏帆のテンションが一気に上がる。
「わぁ……」
「揚げたてで美味そうだな~」
「はい。とっても!」
「「いただきます」」
二人は手を合わせ、蕎麦を食べ始めた。
秋野菜の天ぷらはどれも絶品だ。
舞茸、かぼちゃ、山芋、れんこん――衣はサクッと中はシャキッと歯ごたえがある。
海老の天ぷらも文句なしに美味しい。
満足した夏帆は、蕎麦を口に運ぶ。
蕎麦の実を殻ごと挽いた田舎風の蕎麦には、めんつゆのほかにくるみだれも添えられ、二つの味が楽しめるようになっていた。
「くるみだれも癖になるよ」
「わあ、くるみだれのお蕎麦、懐かしい……」
くるみだれは、地元でよく食べた味だ。
夏帆はさっそく蕎麦をくるみだれにつけて食べてみる。
コシのある蕎麦に濃厚なくるみだれが絡まり、思わず声が漏れた。
「美味しい!」
「だろ? ここのくるみだれは絶品だよね~」
「お蕎麦も美味しいです」
「口に合ってよかったよ」
透也は満足げにうなずいた。
(家の近くにこんな美味しいお蕎麦屋さんがあるなんてラッキー!)
メニューを見たとき、値段もわりとリーズナブルだった。
これなら、しょっちゅう食べに来られる。
夏帆は長野出身で、蕎麦が大好きだった。
(え? もしかして、私が長野出身なのを知って、ここに連れて来たの?)
そこまで気を遣ってくれるはずはない――そう思い直した瞬間、透也が言った。
「夏帆ちゃんの実家の方も、蕎麦美味いだろう?」
(やっぱり……そうかも……)
胸を熱くしながら答える。
「はい。だから、ホームシックになるとお蕎麦が食べたくなるんです」
「ははっ、やっぱりそうなんだ。じゃあ、近くにこの店があってよかったね~」
「はい。これからはちょくちょくひとりで食べに来ます」
「ん?」
透也は不思議そうに夏帆を見る。
「え?」
「ひとりで来ないでさ、来るときは俺も誘ってよ」
夏帆はドキッとした。
(それって、どういう意味? 私と一緒に来たいってこと?)
まるで心を読んだように、透也が続ける。
「夏帆ちゃんとは隣人さんなんだし、ここへ来るときは俺も誘ってくれよな~」
(ああ……隣人としてってことか。びっくりした~)
夏帆は胸をなでおろし、笑顔で答えた。
「分かりました。来るときは声かけますね」
「よろしく~」
透也は最後の一口を食べ終えると、もう一度メニューを開いて言った。
「デザートにわらび餅もいっちゃう?」
「はいっ!」
二人は蕎麦を食べ終えたあと、この店自慢の手作りわらび餅も堪能した。
会計を済ませて店を出ると、夏帆は「ごちそうさま」と礼を言い、二人は肩を並べて歩き始めた。
「本当に美味しかった~」
「ほっとする味だよね」
「はい。雰囲気も落ち着いていて、いい店ですね」
T字路を左折し、いつものマンションへ続く通りへと出る。
「そういえば、明日からの秘書業務、大丈夫そう?」
「帰りに予習してきたので、ばっちりです」
「おー、そりゃ、楽しみだ」
嬉しそうに微笑む透也の横顔を見て、夏帆の胸はドキドキと高鳴る。
(ダメダメ、この人は上司でしょ! それにお隣さんなんだから!)
そう自分に言い聞かせ、よこしまな思いを振り払う。
やがてマンションのエントランスが見えてきた。
楽しい会話がもうすぐ終わってしまうと思うと、夏帆は少しだけ寂しさを覚える。
入口にある花壇からは虫の声が賑やかに響き、夜風に乗ってローズマリーの香りが漂ってくる。
(なんか、このマンションに帰ってくると、ほっとするな……)
張り詰めていた心がふっと緩む。
このマンションに越してきてよかった――心からそう思えた。
二人がエントランスへ入ろうとしたそのとき、突然夏帆を呼ぶ声が響いた。
「藤田さん、藤田さんですよね?」
「えっ?」
振り返ると、そこには――駿介を寝取った女、結城紗英の姿があった。
その瞬間、夏帆は思わず目を大きく見開いた。
コメント
18件
楽しいお蕎麦デートのラストにストーカー紗英登場💢💢 お呼びでないからはよ帰れーーーっっ‼️
ちょっと〜せっかくいい気分で帰ってきたのに😱 追い払ってください🙏
せっかくいい感じの雰囲気だったのにーーー!! わざとらしく話しかけてきたー💦 いつから張り込みしてたのかな…怖っ💦😱