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ふぃる汰
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【あと10日】 音の記録
登場人物
水城レン
二十六歳。細身で、耳の近くまで伸びた少し癖のある茶色の髪と、濃い茶色の瞳を持つ。灰色の薄手ジャケットにベージュのシャツ、動きやすいパンツを着ている。資料を読むときには前髪を指先で横へ寄せる癖がある。
秋庭教授
六十二歳。短く整えた灰色の髪に、細い樹脂縁の眼鏡を掛けている。背は低め。茶色のカーディガンと灰色のシャツを着ている。資料に集中すると眼鏡を鼻の近くまで下げ、紙へ顔を近づけて読む。
柚木マリ
三十四歳。肩の近くまで伸びた緩い癖のある紫色の髪と茶色の瞳を持つ。黄緑のシャツに灰色のパンツを着ている。古い音響資料を保管する施設の職員で、普段は落ち着いた表情をしているが、珍しい記録を見つけると目を大きくする。
◆
午前八時二十七分。
水城レンは文化学研究室の扉を開けた。
室内は静かだった。
換気設備の低い作動音。
端末の起動音。
廊下を歩く誰かの足音。
机へ鞄を置き、レンは端末を起動した。
昨日まで画面の端に表示されていた数字が、一つ減っている。
あと10日。
レンは椅子へ座らなかった。
十。
昨日は十一だった。
その前は十二だった。
一日ずつ減る。
老人の戸倉が持ってきた極秘資料は、残り十冊。
十二日後に日本を壊滅させる巨大地震。
最初に読んだときは、現実味のない数字だった。
だが、十二が十一になり、十一が十になる。
数字は減るだけなのに、日付が近づいてくる感覚だけは妙にはっきりしていた。
レンは机の端に積まれた資料へ目を向けた。
昨日調べた祭り。
古い映像。
人の群れ。
屋台。
声。
笑顔。
そして、水原トキが言った言葉。
一年が平らになった感じ。
祭りが消えても、人々は生きていけた。
街も動いた。
仕事もできた。
何も困らない。
それなのに、何かが減った。
レンはまだ、その何かをうまく説明できなかった。
研究室の奥で紙をめくる音がした。
秋庭教授がすでに来ていた。
短く整えた灰色の髪。
茶色のカーディガン。
細い樹脂縁の眼鏡を少し下げ、昨日の記録を読んでいる。
レンは上着を椅子へ掛けた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日で十日です」
教授は顔を上げる。
「そうだな」
「気になります?」
「何が」
「地震」
教授は資料を閉じた。
「気にならないと言えば嘘になる」
「ですよね」
「だが、我々には予測を検証する設備も知識もない」
「文化しか分からない」
「文化も大して分かっていない」
レンは少し笑った。
「それ言っちゃいます?」
「分かっていたら研究していない」
教授が机の中央を見る。
三冊目の資料が置かれている。
表紙には数字だけ。
3。
レンもそれを見る。
「開けます?」
「そのために来たんだろう」
レンは椅子へ座った。
三冊目を手前へ引く。
紙の端へ指を掛ける。
一頁目。
そこには短い文字があった。
第三対象文化。
音楽。
レンは瞬きをした。
「音楽」
知識としては知っていた。
歴史資料の中で何度か見た言葉だ。
一定の音を組み合わせ、人間が鑑賞していた文化。
それくらい。
現在でも音そのものは存在している。
通知。
警報。
案内。
機械の作動確認。
通信。
音声情報。
だが、音楽というものを日常的に聞く人間は、ほとんどいない。
レン自身も、まともに聞いた記憶はなかった。
「教授は聞いたことあります?」
「ある」
レンが顔を上げる。
「あるんですか?」
「学生時代に資料で」
「どうでした?」
「よく分からなかった」
「教授でも?」
「初めてだったからな」
レンは頁をめくる。
そこには昔の人々が使っていた道具が並んでいた。
鍵盤楽器。
弦を張った楽器。
筒状の楽器。
打楽器。
電子機器。
人間が両手で持つもの。
肩へ乗せるもの。
座って演奏するもの。
巨大なもの。
「多い」
レンは思わず呟いた。
さらに頁をめくる。
音楽分類。
歌唱。
器楽。
合唱。
民謡。
電子音。
映像用。
舞台用。
作業用。
運動用。
店舗用。
個人鑑賞用。
「作業用?」
レンの指が止まる。
教授が覗く。
「昔は仕事や勉強をしながら音楽を聞く人もいた」
「なんで?」
「好きだったんじゃないか」
「作業に必要ないですよね」
「必要性の話をすると、昨日と同じところへ戻るぞ」
レンは黙った。
昨日もそうだった。
祭り。
必要ではない。
なくても生きられる。
だから消えた。
「音って、普通は意味があるじゃないですか」
レンは天井を見る。
ちょうど換気設備の音が聞こえている。
「これなら設備が動いてる音」
端末を指す。
「これが鳴ったら通知」
扉を見る。
「そこが鳴ったら来客」
教授が頷く。
「そうだな」
「音楽は?」
「聞くための音だ」
レンは眉を寄せた。
「だから、その先です」
「先?」
「聞いて、何をするんです?」
教授が少し考える。
「何もしないこともある」
「聞くだけ?」
「そうだ」
「何分?」
「数分のものもあれば、もっと長いものもある」
レンは資料を見る。
理解しにくい。
数分間、情報でもない音を聞き続ける。
しかも人間はそれを自分から選んでいた。
資料をさらに進める。
一枚の写真があった。
巨大な会場。
中央に小さな舞台。
その周囲を埋め尽くす人々。
「また集まってる」
レンが言った。
教授が笑う。
「昨日も見た光景だな」
「昔の人って、集まるの好きだったんですか?」
「そういう文化が多かったのかもしれない」
別の写真。
一人で目を閉じている人。
耳に小さな機器を付けている。
その次。
車両の中で聞く人。
家で聞く人。
歩きながら聞く人。
「一人でも聞くんだ」
「むしろ個人で聞く機会も多かったようだ」
「じゃあ、集まる必要ないじゃないですか」
「必要かどうかではないんだろう」
また、それだった。
必要ではない。
でも、やる。
レンは頁をめくった。
資料番号。
AUDIO-00441。
演奏記録。
保存先が記載されている。
旧音響文化保存センター。
レンは端末へ施設名を入力した。
検索結果が一件。
建物は残っている。
現在は文化記録保管庫として使われていた。
一般利用停止。
研究目的のみ閲覧可能。
レンは教授を見る。
教授もレンを見る。
「行きます?」
「行かない理由がないな」
「音楽を聞きに行く」
言葉にすると妙だった。
研究のためとはいえ、何かを聞くことだけを目的に外出する。
昨日は祭りが行われていた場所へ行った。
今日は音を聞くために行く。
レンは立ち上がった。
「だんだん無駄研究員らしくなってきましたね」
教授も立つ。
「最初からだ」
午前九時四十八分。
二人は研究棟を出た。
駅まで歩く。
レンは途中で何度も周囲を見た。
音楽を調べると決めたせいか、街の音が気になる。
車両が通る。
自動扉が動く。
案内設備が一度鳴る。
靴が歩道へ触れる。
風が樹木を揺らす。
それだけ。
店舗の中も静かだった。
昔の資料では、店舗で音楽を流す文化もあったらしい。
「店で音楽って、何のためだったんです?」
レンが歩きながら聞いた。
「雰囲気作り」
「雰囲気」
「そう書かれている資料は多い」
「音で雰囲気が変わる?」
「らしい」
「警報が鳴れば緊張するから、それと似たようなもの?」
教授が少し考える。
「かなり違うと思うが、音で感覚が変わるという意味では近いのかもしれない」
駅へ着く。
列車に乗る。
静かな車内。
乗客は端末を読んでいる。
窓の外を見ている。
眠っている。
レンは座席へ腰を下ろした。
向かい側の男性を見る。
もし百年以上前なら、耳に機器を付けて音楽を聞いている人がいたのだろうか。
「毎日聞いてた人もいたんですかね」
「いたようだ」
「同じものを?」
「それもあった」
「一回聞いたら内容分かるでしょう」
教授が窓を見る。
「君は昨日、祭りの映像を何回見た?」
レンは黙った。
五回以上は見た。
内容は同じだった。
それでも見た。
「見るのと聞くのは違います」
「どう違う?」
答えが出ない。
レンは窓へ顔を向けた。
一時間後。
旧音響文化保存センターへ到着した。
建物の入口には、小さな施設名だけが残っている。
内部は現在の施設より複雑だった。
壁の形。
天井。
曲線を使った通路。
「昔の建物って、変な形多いですよね」
レンが言った。
「機能以外の部分にも意味を持たせていたんだろう」
受付で研究員証を提示する。
文化学研究室。
音響資料閲覧希望。
職員が確認し、奥へ連絡する。
数分後。
一人の女性が現れた。
肩の近くまで伸びた緩い癖のある紫色の髪。
黄緑のシャツ。
灰色のパンツ。
茶色の瞳が二人の研究員証へ向く。
「文化学研究室の方ですね」
「はい」
「柚木マリです。音響資料を担当しています」
レンは少し驚いた。
「専門の人がいるんですね」
「保存設備の管理が中心です。内容については、それほど詳しくありません」
「音楽は聞きます?」
柚木は一瞬止まった。
「仕事でなら」
「仕事以外では?」
「たまに」
レンと教授が同時に柚木を見る。
「珍しいですか?」
柚木が聞いた。
レンは頷いた。
「俺、今日まともに聞くの初めてです」
「そうなんですね」
柚木は少しだけ楽しそうな顔をした。
「それなら、反応を見るのが楽しみです」
三人は地下へ降りた。
扉を二つ通る。
音響資料庫。
柚木が照明を付ける。
レンは中へ入り、足を止めた。
棚が並んでいる。
奥まで。
大量の記録媒体。
一つ一つに管理番号が付いている。
「全部?」
「音の記録です」
「どれくらいあるんです?」
「この施設だけで約四十七万件」
レンは聞き返した。
「四十七万?」
「はい」
「そんなに音を作ってたんですか?」
「世界全体では、比較にならないほど多かったようです」
レンは棚へ近づく。
四十七万。
一つ四分だとしても、とても全部は聞けない。
「作りすぎじゃないですか」
柚木が少し笑った。
「それだけ需要があったんでしょうね」
目的のAUDIO-00441は、さらに奥の保存区画にあった。
柚木が慎重に媒体を取り出す。
小さな長方形。
見た目だけなら、何が記録されているのか分からない。
「再生できます?」
「状態を確認します」
再生室へ移動する。
机。
椅子。
壁面の音響装置。
柚木が媒体を接続した。
画面に情報が出る。
AUDIO-00441。
記録年代。
演奏者。
曲名。
再生時間。
五分三十八秒。
レンは時間を見る。
「五分半」
「長いですか?」
「何もせずに音だけ聞くなら」
教授が隣の椅子へ座る。
「まず聞け」
レンも座った。
柚木が操作卓へ手を置く。
「音量は低めから始めます」
「お願いします」
再生。
最初は静かだった。
レンは画面を見る。
再生時間だけが進む。
一秒。
二秒。
三秒。
小さな音が鳴った。
レンは瞬きをした。
もう一つ。
違う高さ。
さらに一つ。
音が続いていく。
レンは装置を見た。
異常表示はない。
一定の間隔のようで、少し違う。
同じようで違う。
低い音の上に高い音が重なる。
「これ?」
レンが小声で聞く。
「はい」
柚木が答える。
「音楽です」
レンは黙った。
音が続く。
何かを知らせている感じがしない。
どこへ行けとも言わない。
危険とも言わない。
確認しろとも言わない。
意味を探そうとしても見つからない。
三十秒。
レンは姿勢を変えた。
「まだ続くんですよね」
「五分三十八秒です」
「長いな」
教授が少し笑う。
一分。
別の音が増えた。
レンは眉を寄せる。
さっきより速い。
気がする。
正確には分からない。
だが、何かが変化している。
一分二十秒。
レンの右手の人差し指が膝を叩いた。
トン。
少しして、
トン。
レンは自分の指を見る。
止める。
また音へ意識を戻す。
一分四十秒。
人間の声が入った。
レンが顔を上げる。
「歌?」
教授が頷く。
普通に話す声とは違う。
一つの言葉を長く伸ばす。
高さが変わる。
声の後ろで音が続いている。
レンは言葉を聞き取ろうとした。
意味はある。
文章になっている。
だが、普通に読めば一分も必要ない内容だった。
「なんで伸ばすんだろ」
柚木が笑う。
「最初はそこが気になりますよね」
「普通に言えば早いですよね」
「早さを目的にしていないんだと思います」
レンは黙った。
早さを目的にしない。
その発想が妙だった。
二分。
声が大きくなる。
音も増える。
レンはいつの間にか背もたれから身体を離していた。
二分半。
急に音が減った。
レンの身体が止まる。
静かになる。
終わった?
そう思った瞬間。
小さな音が戻った。
そこへ声。
さらに別の音。
レンは少し前へ身体を傾けた。
自分が続きを待っていたことに気付いた。
三分。
最初に聞いた音が戻ってきた。
「あ」
レンが呟く。
「最初のやつ」
教授も頷く。
一度聞いた音だから分かる。
最初は意味の分からなかった音が、戻ってきたと分かる。
四分。
声が高くなる。
レンの胸のあたりが妙に落ち着かない。
警報を聞いたときの緊張とは違う。
危険ではない。
怖くもない。
なのに身体が反応している。
四分半。
音が一気に増えた。
声も重なる。
レンは画面から目を離した。
壁を見る。
何もない壁。
それでも耳だけは音を追っている。
五分。
少しずつ弱くなる。
最後に声が消える。
音だけになる。
一つ。
もう一つ。
最後の一音。
静かになった。
再生終了。
誰も話さなかった。
研究室とは違う静けさだった。
さっきまで音があったせいで、何もない状態がはっきり分かる。
レンは再生画面を見る。
五分三十八秒。
「終わり?」
「終わりです」
柚木が答えた。
レンは椅子へ座ったまま、少し考えた。
「もう一回いいですか」
教授が笑った。
「一回で十分じゃなかったのか」
「研究です」
「便利な言葉だな」
柚木が再生位置を戻す。
「二回目、いきます」
再生。
最初の音。
レンはすぐに分かった。
「ああ、これ」
一回目とは違う。
次に何が来るか少し覚えている。
声が入る場所。
一度静かになる場所。
最初の音が戻る場所。
同じ記録。
同じ五分三十八秒。
それでも聞き方が変わっていた。
一回目にはただの音だった部分が、二回目にはまとまりとして聞こえる。
レンの指がまた膝を叩く。
今度は止めなかった。
トン。
トン。
途中で教授を見る。
教授も足先を小さく動かしていた。
「教授」
「何だ」
「動いてますよ」
教授が足を止める。
「君もな」
レンは自分の指を見る。
二人とも少し笑った。
二回目が終わる。
今度は静けさが来ることも知っていた。
それでも、終わると少し物足りない。
「変ですね」
レンが言った。
「何が?」
「内容はもう分かってるのに、また聞ける」
柚木が椅子へ座る。
「昔は同じ曲を何百回も聞く人もいました」
「何百回」
レンは媒体を見る。
「五分を?」
「はい」
「人生の時間、かなり使いますよね」
教授が言った。
「祭りも何時間も使っていた」
「またそれですね」
「文化は時間を使うものなのかもしれないな」
レンはその言葉を考えた。
時間を使う。
現在は時間を節約するものが多い。
移動を短く。
作業を短く。
説明を短く。
待ち時間を短く。
なのに昔の文化は、時間を使わせる。
しかも人々は自分から使う。
「柚木さん」
「はい」
「この曲、聞いたことあります?」
「あります」
「何回?」
柚木は少し考えた。
「十一回くらい」
「点検で?」
「最初の三回は」
レンが笑った。
「残り八回は?」
柚木も笑った。
「聞きたくなったので」
「なんで?」
「分かりません」
「まただ」
「何がです?」
「昨日も祭りで聞いたんです。理由はない。なんとなくって」
柚木は媒体を見る。
「音楽は、そういうものが多かったのかもしれませんね」
レンは三回目を再生してもらった。
今度は目を閉じた。
視界が消える。
音だけになる。
最初の音。
次。
次。
声。
頭の中に昨日の公園が浮かんだ。
祭りの跡。
誰もいない場所。
そこへ昔の人々が重なる。
太鼓。
屋台。
笑う人。
水原トキ。
一年が平らになった感じ。
レンは目を開けた。
「昨日のこと思い出しました」
「祭り?」
教授が聞く。
「はい」
「この曲と関係ある?」
「ないです」
「じゃあ、なぜ?」
「分かりません」
また分からない。
それなのに嫌ではなかった。
午後。
三人は施設に残された記録を調べた。
昔、人間は音楽を持ち歩いていた。
家で聞いた。
移動中に聞いた。
運動中に聞いた。
眠る前に聞いた。
誰かと一緒に聞いた。
一人でも聞いた。
祝い事で流した。
悲しいときにも聞いた。
作業中にも聞いた。
「何にでも使ってません?」
レンが資料を見ながら言った。
「生活のかなり広い範囲にあったようですね」
柚木が答える。
別の記録。
音楽販売。
音楽配信。
演奏会。
音楽番組。
音楽教育。
楽器販売。
個人制作。
「学校でも?」
「学んでいた時代があります」
「全員?」
「地域や年代によりますが、多くの人が触れていました」
レンは椅子へ深く座った。
「今だと想像できない」
次に、音楽文化が衰退していく記録を見る。
最初は小さな変化だった。
作業環境から減る。
理由。
集中力への影響。
必要な設備音の聞き逃し。
次に公共施設。
理由。
不快に感じる人への配慮。
不要音の削減。
次に店舗。
理由。
維持費。
管理。
効果の不確実性。
次に学校。
学習時間の効率化。
実用性の低い科目の整理。
レンは頁を止めた。
「これ」
教授も見る。
一つ一つだけなら、それほど異常には見えない。
集中したい人はいる。
静かな環境を好む人もいる。
音が邪魔になる仕事もある。
だが、長い年月を並べると違って見える。
音楽が存在できる場所が、少しずつ減っている。
次。
音楽を作る職業に対する評価。
不安定。
生産性が低い。
社会維持への寄与が限定的。
次。
個人で音楽を聞く行為。
時間消費。
聴覚疲労。
注意力低下。
レンは資料から手を離した。
「また同じだ」
「祭りと?」
「はい」
嘘ではない。
問題が存在しないわけでもない。
ただ、片側だけが並んでいる。
楽しい。
好き。
落ち着く。
元気になる。
人とつながる。
そういう記録は、評価資料の中にほとんど出てこない。
「教授」
「うん」
「音楽が好きだった人は反対しなかったんですか」
「しただろう」
「じゃあ何で」
「何十年も続いた」
教授は年代を指す。
「最初に音楽を知っていた人が年を取る。その次の世代は、触れる機会が少なくなる。その次はもっと少ない」
レンは続きを見る。
音楽鑑賞経験。
八十二パーセント。
数年後。
六十七パーセント。
さらに後。
四十八パーセント。
三十一パーセント。
十六パーセント。
五パーセント。
そして、
一パーセント未満。
「知らなかったら」
レンが呟く。
「なくても困らない」
教授が続ける。
レンは資料を閉じた。
「俺ですね」
「何が?」
「昨日までの俺、音楽なくても困ってなかった」
教授は黙っている。
「今日だって、聞かなかったとしても普通に帰ってた」
レンは再生装置を見る。
「でも、一回聞いたら」
言葉が止まる。
どう言えばいいのか分からない。
「もう一回聞いた」
教授が言った。
「三回です」
「三回聞いた」
「はい」
柚木が小さく笑う。
「まだ聞きます?」
レンは即答した。
「聞きます」
夕方。
二人は研究室へ戻った。
柚木から研究用に複製された演奏データを受け取っている。
レンは机の上へ小型再生装置を置いた。
三冊目の極秘資料を開く。
後半。
音楽文化への関心。
減少。
演奏人口。
減少。
制作人口。
減少。
音楽を聞くためだけに時間を使う人口。
減少。
最後の調査。
音楽という文化を復活させたいか。
希望する。
一パーセント。
希望しない。
七十八パーセント。
判断できない。
二十一パーセント。
次の頁。
文化継承停止を確認。
第三段階終了。
レンは長く息を吐いた。
窓の向こうを見る。
街は静かだった。
今朝と何も変わらない。
車両。
人。
建物。
音楽がなくても街は動いている。
百年以上。
誰も困らなかった。
少なくとも、困っていると認識する人はいなくなった。
レンは小型再生装置を動かした。
最初の音が鳴る。
教授が顔を上げる。
「四回目?」
「施設で三回だから、四回目です」
「気に入った?」
レンは少し考えた。
「たぶん」
「理由は?」
「分かりません」
教授が笑った。
レンも笑う。
音が続く。
二人は資料整理を始めた。
途中から声が入る。
レンは紙を分類する。
音を聞くために手を止めるわけではない。
それでも、耳は音を追っている。
作業用。
午前中に資料で見た言葉を思い出す。
「教授」
「何だ」
「これ、作業用音楽ってやつになってません?」
教授が資料から顔を上げる。
数秒。
「なってるな」
二人はまた笑った。
五分三十八秒。
再生終了。
静かになる。
レンは紙を一枚保管箱へ入れた。
次の紙へ手を伸ばす。
止まる。
静かだ。
さっきまでと同じ研究室なのに、違って感じる。
「もう一回流していいです?」
「好きにしろ」
五回目。
再生。
レンは作業を続けた。
しばらくして、机を指で叩いていることに気付く。
トン。
トン。
音に合わせる。
今度は止めない。
教授も何も言わない。
外はいつもの街。
必要な音だけがある社会。
警報。
通知。
案内。
作動確認。
意味を持つ音。
その中で、この研究室だけに意味を求めなくてもいい音が流れている。
レンは端末へ今日の研究記録を入力した。
音楽。
情報ではない。
警報でもない。
指示でもない。
それでも、人間は自分から聞いていた。
そこまで書く。
少し考える。
続きを入力する。
音楽は、聞いた人に何かをさせるための音ではなかった。
人間は何かを感じるために、時間を使って音を聞いていた可能性がある。
指が止まる。
保存。
再生中の曲が、静かな部分へ入る。
レンは端末の隅を見る。
あと10日。
明日は九日になる。
残された資料も、一冊減る。
文化を一つ知るたびに、巨大地震まで一日近づく。
レンはその数字から目を離した。
今は音を聞く。
五分三十八秒。
何の役にも立たないかもしれない時間。
だが、早く終わってほしいとは思わなかった。
最後の音が鳴る。
静かになる。
レンは数秒待った。
そして再生装置へ指を伸ばした。
六回目。
教授が呆れたように笑った。
「随分気に入ったな」
レンは再生に触れる。
「なんとなくです」
音が流れ始める。
昨日まで存在しなかったものが、研究室の中を満たしていく。
街から消えた文化。
聞く人がいなくなった文化。
作る人もいなくなった文化。
それでも記録の中では、まだ音が鳴った。
レンは資料をめくる。
指先は、また小さく机を叩いていた。
あと十日。
数字は減っていく。
けれど今日だけは、消えたものが一つ戻ってきた。
五分三十八秒が終われば、また最初から。
聞きたいと思う人間がいる限り、
音の記録は、ただの記録ではなかった。
コメント
1件
読ませていただきました…! レンくんが初めて音楽を“意味じゃなくて感覚で”受け取った瞬間、すごく丁寧に書かれていて、私も一緒に聴いてた気持ちになりました。 “何回も聞きたくなる”——その理由を言葉にできない感じ、すごく分かります。 終わったあとの静けさが、逆に音楽の重みを教えてくれる回でした。無意識に指でリズム取っちゃうのも可愛かったです🖤