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KOKUGA
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#探偵
橘靖竜
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依頼人が去った後、探偵社には短い沈黙が落ちた。
「……で、どこから手をつける?」
沈黙を破ったのは燈だった。椅子にもたれ、天井を仰いだまま言う。
「被害届なし、犯人不在、記録もなし。完璧に“空気案件”だろ」
「だからこそ、順番が大事」
玲が即座に返す。感情の起伏はないが、声は迷いがなかった。
「まず“何が起きたと皆が思っているか”を集める。事実じゃなくていい」
真琴が頷く。
「噂の内容、その伝わり方、タイミング。あと——」
「誰が最初に言い出したか」
燈が言い、舌打ちする。
「まあ、分かりゃ苦労しねえけど」
澪はソファの端で、膝の上に置いた資料をめくっていた。
指が唇に触れたまま、視線だけが文字を追っている。
「依頼人がいた部署と、外部の取引先」
澪がぽつりと言う。
「両方、同じ時期に距離を置いてる」
「同時多発的ってこと?」
真琴が聞く。
「うん。段階がない」
玲が顔を上げた。
「普通、噂なら近いところから広がる。でも今回は——」
「最初から“皆が知ってた”感じ?」
燈が言葉を継ぐ。
澪は小さく頷いた。
伊藤は、コピー機の横でファイルを揃えながら、穏やかに言った。
「じゃ、役割分担をするか」
誰も異論を挟まない。
「真琴さんは、依頼人の元職場。表向きの評価と、公式な説明を」
「はい」
「燈くんは、取引先と周辺。直接聞けるなら、率直に」
「向いてるって言いたいんだろ」
「ああ」
「玲さんは、全体の時系列と、共通表現の整理」
「了解」
「澪さんは——」
伊藤は一瞬だけ言葉を切った。
「非公式な話を」
澪は視線を上げずに、頷いた。
「じゃ、行こうか」
真琴が立ち上がる。
最初に動いたのは真琴だった。
依頼人が勤めていた自治体関連の部署は、表向きは穏やかだった。
受付も、担当者も、対応は丁寧で、よそよそしさはない。
「〇〇さんですか? ええ、覚えていますよ」
中年の職員は、懐かしむように笑った。
「仕事ぶりは真面目でしたし、特に問題は……」
「“特に”?」
真琴がやわらかく返す。
「ああ、いえ。その……状況が変わった、と言いますか」
「状況、とは?」
職員は少し言葉を探し、「誤解があったんです」 と、はっきり言った。
真琴は、その言い回しを逃さない。
「誤解、ですか」
「ええ。でももう解けていますよ」
「解けているのに、契約は終了した?」
「……仕方なかったので」
それ以上は、踏み込ませてもらえなかった。
一方、燈は取引先を回っていた。
「〇〇? ああ、いたな」
相手は気軽な調子だった。
「悪い奴じゃなかったけどさ、ちょっとな」
「ちょっと?」
燈は眉間に皺を寄せる。
「空気、読めない時があったっていうか」
「具体的に」
「いや、そういうのじゃない」
「じゃあ、何が問題だった」
「だから、誤解だって」
燈は思わず机を指で叩いた。
「誤解って、何のだよ」
相手は肩をすくめる。
「さあ? でも皆そう言ってた」
「誰が」
「皆」
同じだった。
玲は社に残り、情報を並べていく。
職場、取引先、知人。
場所も立場も違う人間が、似た言葉を使っている。
「誤解があった」
「気にしないで」
「仕方なかった」
玲は、メモの端に小さく書き足した。
――主語がない。
誰が誤解し、何を気にせず、何が仕方なかったのか。
説明は常に省かれている。
澪は、最後に動いた。
公式な窓口ではなく、依頼人の周辺にいた人物。
辞めた後も、細く繋がっていた人間。
「……そうだね」
電話口の声は、ためらいがちだった。
「皆、そう言ってたから」
「皆って?」
澪が聞く。
「上の人も、同僚も」
「誰か、最初に言い出した人は?」
沈黙。
「覚えてない」
澪は、通話を切った後もしばらく画面を見つめていた。
噂はある。
空気もある。
圧力も、確かにあった。
でも——
誰も、押していない。
夕方、全員が探偵社に戻る。
「同じだ」
燈が苛立ちを隠さず言う。
「全員、同じ逃げ方」
玲がまとめる。
「噂の内容は曖昧。でも、結論だけは共有されている」
「“距離を置くべき人”っていう結論」
真琴が言った。
澪は、資料を閉じながら小さく言う。
「記録がないのに、判断だけが残ってる」
伊藤は、それを聞いて、いつもの穏やかな声で答えた。
「集団は、ときどき“説明を省いた結論”だけを流通させる」
「誰かが、説明した?」
燈が聞く。
「いや」
伊藤は首を横に振る。
「説明は不要だったんだろう」
その言葉に、澪の指が止まった。
説明が、不要。
誰も嘘をついていない。
誰も悪意を認めていない。
それでも、確かに一人の人生は、静かに壊れている。
「……次は?」
真琴が聞く。
玲は答える。
「“最初から存在しなかったこと”を調べる」
澪は、何も言わなかった。
ただ、伊藤の背中を、ほんの一瞬だけ見ていた。