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#現代ファンタジー
るるくらげ
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「ランゼ、南市の魚売り! 声が大きくて、娘にだけ甘かった!」
「ミナ、北壁の繕い女! 片袖だけ先に直す癖があった!」
「グラッソ、東門の見張り! 眠いときほど歌った!」
一つ、また一つと名が読まれるたび、影の輪郭が揺れた。
ぼやけていた顔の位置に、かすかな表情の気配が戻る。段下で盾を構えていた騎士が、はっとしたように呟いた。
「……母が、好きだった歌を……」
記録は紙の上だけにあるのではない。
読まれた瞬間、人の胸へ帰る。
レドルフは止まらない。
大広間じゅうが即席の劇場になり、彼の声が忘却へ杭を打ち込み続ける。
祭壇へ上がる階段の途中で、ロビサは一度だけ振り返った。
レドルフの周囲には、名を呼ばれた影たちが膝を折るように静まりつつあった。鬼を倒すのではない。鬼の中に閉じ込められた人の残りを、名前で呼び戻している。
あれも、確かに鬼退治だった。
だがウマルは、その光景すら苛立たしげに睨んだ。
「感傷だ」
彼は鏡面へ片手をかざす。
「都を守るのに必要なのは、泣きながら名前を数えることじゃない。終わらせる力だ」
「終わらせたいなら、書き換えられたほうを終わらせるべきです」
ロビサは記録針を構えた。
「あなたが英雄になりたい気持ちまで、否定するつもりはありません」
「なら邪魔をするな!」
「でも、都の人を削ってできた英雄譚は、被害記録官として認められません」
その言葉で、ウマルの顔が初めてゆがんだ。
怒りだけではない。理解されなかった悔しさも混じっている。
「誰も……誰も、俺が何を見てきたか知らない」
彼は低く言った。
「鬼に食われて、泣き声ごと消えた家を。記録されても間に合わなかった夜を。俺は、ただ勝ちたかったんじゃない。もう負けたくなかっただけだ」
ロビサの胸が痛んだ。
その痛みを知っているからこそ、譲れない。
「私も、負けたくありません」
彼女は答えた。
「だから、生きている人を消すやり方では終わらせません」
鏡の縁で、黒い文字が鎖みたいにほどけた。
それが祭壇の床を這い、ハディジャの足へ絡みつく。彼の喉元にも、前より濃い封印文字が浮かび上がった。
「っ、来るぞ……!」
ハディジャが呻いた次の瞬間、その背後に百年前の青年の輪郭が重なった。
青白い残像。喉を蝕む黒い文。顔は似ているのに、目つきが違う。飢えたように、諦めたように、そしてどこかでまだ誰かを庇っている目だった。
『花嫁を差し出せば終わる』
声ではなく、意味だけが流れ込んでくる。
ロビサは足を止めなかった。
「終わりません」
彼女ははっきりと言った。
「その結末は、百年前に失敗したでしょう」
ハディジャが歯を食いしばる。
彼の手が震えている。指先から青い火花みたいなものが散り、床へ落ちたところから小さな鬼影が芽を吹くように起き上がった。三体、四体。どれも未完成で、喉ばかり大きく、名を欲しがる赤子みたいな顔をしている。
「ロビサ!」
ハディジャが吠える。
「書け! こっちは俺が――」
最後まで言わせず、鬼影が彼へ群がる。
彼は短刃で一体の腕を払うと、そのまま肩で二体目を祭壇の柱へ叩きつけた。荒っぽい。けれど、その荒っぽさの裏に、以前からずっと見てきた優しさと同じ種類の焦りがある。自分より先に、他人を通そうとする焦りだ。
ロビサは祭壇の中央へ踏み込んだ。
鏡面は近くで見ると、水ではなく文字の層でできていた。書かれた記録。消された記録。消しきれなかった名。誰かが誰かを守ろうとして書いた筆圧まで、薄く重なって揺れている。
リュバから渡されたムーンストーンが、記録針の根元で強く脈を打った。
「被害記録局見習い記録官ロビサ」
彼女は、鏡へ名乗るように息を吐いた。
「記録再開」
針先を触れた瞬間、びり、と腕の骨まで震えた。
鏡が抵抗している。偽の儀式文が、自分を守るように波打っている。
それでも書く。
ロビサは百年前の写しで見た最初の行をなぞった。
『名を奪うものには、名を返す』
針が走るごとに、青い鏡面へ白い文字が浮いた。
同時に都へ伸びていた光の糸が何本かほどける。大広間のどこかで、誰かが嗚咽混じりに叫んだ。
「思い出した……弟の名前だ……!」
第一行だけで、変化は起きた。
だが鏡も黙ってはいない。
主祭壇の上空で青光が弾け、天井の古いアーチへひびが走る。石の破片が降り、階段の途中で良心派の若い騎士が一人、崩れた欄干の下敷きになった。
「う、わ……っ」
短い悲鳴。
その音に、モンシロの足が止まった。
五年前と同じだ、とロビサは見てしまった。
崩落。若い部下。間に合わない距離。
モンシロの顔から血の気が引く。右手が空を掴むみたいに浮いた。
次の瞬間、彼は自分の頬を拳で殴った。
乾いた音がして、ぐらついた視線が戻る。
「止まるな!」
怒鳴り声は、自分自身へ向けたものでもあった。
「二班、柱を支えろ! 三班、救出縄! そいつを一人にするな! 今度は置いていかない!」
【続】