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#現代ファンタジー
るるくらげ
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その声で、現場班が一斉に動いた。
モンシロ自身が先頭で瓦礫へ飛び込み、肩を入れて持ち上げる。若い騎士の腕が見え、別の班員がそこへ縄を通す。石粉にまみれながら、モンシロは何度も叫び続けた。
「目を閉じるな! ここにいる! 引け、せーので引け!」
誰も置いていかない。
五年前に言えなかったことを、今の彼は身体じゅうで言っていた。
ロビサは二行目へ針を滑らせる。
『恐れに喰われるものには、呼び戻す声を置く』
文字が鏡へ刻まれた途端、レドルフの声がさらに遠くまで届いた。
まるで鏡自体が、今度は名を奪うためでなく返すために音を通し始めたようだった。
「エレサ! 西坂の菓子焼き! 焦がした日ほど笑って誤魔化した!」
「トビアス! 石工見習い! 左手の親指にだけ傷が多かった!」
名を呼ばれた影が、一体また一体と膝をつく。
青いもやの中から、人の仕草が戻る。抱きしめる癖、肩をすぼめる癖、笑う前に息を吸う癖。そういう小さなものまで、記録は拾い上げる。
ウマルが動いた。
「やめろ!」
彼は剣を抜き、ロビサへ駆け寄ろうとした。
だがその行く手へ、ヴィットリアーナが滑り込む。彼女は剣士ではない。なのに躊躇せず、証拠箱ごとウマルの腕へぶつけた。羊皮紙が舞い、改竄文書の写しが青い光の中へ散る。
「見なさい!」
ヴィットリアーナが叫ぶ。
「これがあなたの英雄譚の下敷きよ!」
散った紙片を、段下の騎士たちが、聖職者たちが見る。
迷っていた者の何人かが、はっきりとウマルから距離を取った。
「監査官殿、下がれ!」
「嫌よ」
ヴィットリアーナは髪を乱したまま言い返した。
「三年前は下がった。だから今度は下がらない!」
その声には、学院時代の彼女の片鱗があった。
正しいと思ったことを口にする前に、先に足が出てしまう、あの頃のまっすぐさ。
ウマルの剣が振り下ろされる。
けれど刃が彼女へ届く前に、横から飛び込んだハディジャが短刃で受けた。金属が噛み合う嫌な音が響く。
「女に八つ当たりすんなよ」
ハディジャは笑おうとしたが、喉元の黒い文字がそれを邪魔した。笑みの端がひどく苦い。
「おまえ……まだ正気か」
ウマルが息をのむ。
「半分くらいな」
「なら、なおさらわかるだろう! 器は捨てるしかないんだ!」
「わかるよ」
ハディジャは剣を押し返した。
「捨てりゃ話が早いって考えが、どれだけ楽かくらいはな」
彼の視線が、ほんの一瞬だけロビサへ向く。
「でも、あいつが嫌がることは、今回はやめる」
ロビサの指先が、ほんのわずかに震えた。
その震えごと、三行目へ乗せる。
『器へは剣ではなく記録を』
書いた瞬間、ハディジャの喉元を這っていた黒い文字が一部だけほどけた。
彼自身も驚いたように目を見開く。完全には消えない。それでも、確かに効いている。
鏡のうなりが怒りに変わった。
高い天井から吊られていた鐘が勝手に鳴り、青い衝撃が堂内を走る。段下の燭台が倒れ、火花が散った。
「火を踏め! 布へ移すな!」
モンシロが叫ぶ。
崩落から救い出した若い騎士は、まだ顔を青くしながらも仲間の肩を借りて立っていた。置いていかれなかった目をしている。そのことに、ロビサは胸の奥で小さく息をついた。
あと一行。
あと一行で、百年前に削られた中核へ届く。
だが最後の文は、ただ文章を書くだけでは足りないと、針先が教えてきた。
鏡面の奥に、二つ分の空白がある。対なる二名。誤りなく記せ――そこだけが、今を生きる人間の手で埋められるのを待っている。
ロビサは息を呑んだ。
ハディジャも気づいたらしい。ウマルを押し返したまま、苦く笑う。
「来たか」
喉元の黒文字がまた濃くなる。百年前の残響が、彼の輪郭を後ろから引っ張る。アジュマルの名が、今のハディジャの名へ上書きしようとする。
『こちらへ戻れ』
鏡が囁く。
『器で終われ』
「嫌です」
ロビサは鏡へ言った。
今度は怒鳴らず、きっぱりと。
「この人は、もう記録済みです」
彼女は最後の行へ針を置く。
『花嫁を捧ぐるな。対なる二名を誤りなく記し、鏡の飢えを閉じよ』
文の途中まで書き進めたところで、鏡面の中央が大きく脈打った。
青い井戸の底から、巨大な影がせり上がる。鬼王の核。形は定まらず、名を奪われ続けた怨みだけが塊になったようなものだ。大広間の空気が一気に重くなり、段下の誰もが膝を折りかける。
ハディジャが苦鳴を漏らした。
「……ロビサ!」
彼の声が、自分の声と百年前の残響とで二重に揺れる。
今ここで名を誤れば、鏡は待っていたようにそれを食うだろう。
ロビサは顔を上げた。
祭壇の前で、ハディジャがひとりで立っている。背後には青い巨大な影。前にはウマル。横からはなおも湧く鬼影。なのに彼は、逃げろではなく、呼べと言う目をしていた。
その目だけは、最初の夜から一度も変わっていない。
目の前の誰かを、見捨てたくない目だ。
だからロビサも、もう迷わなかった。
記録針を握る手へ力をこめる。
最後に記すべきは、百年前の残り火ではない。今の名だ。
青い光が堂内のすべてを呑み込みかける中、ロビサは唇を開いた。
次の一文字で、都の朝が決まる。
【終】