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財布を開くと、指先が震えた。
残っているのは、小さく折れた千円札が一枚と、くすんだ十円玉が八枚。
今日これで、クラスの“注文”を全部こなせるわけがない。分かっているのに、見なかったことにできない。
朝の光は眩しいのに、胸の奥だけが鉛みたいに重かった。
昨日、女子三人からスイーツと飲み物を頼まれ、男子二人にエナドリとホットスナックを押しつけられた。
合計は……思い出したくない。
財布が軽くなるたび、息まで薄くなっていく。
(今日……どうしよう)
遥は、蜘蛛の巣にひっかかった虫みたいに、静かに追い詰められていく感覚に慣れすぎていた。
慣れたくなんてなかったのに、もう“慣れた”としか言いようがない。
台所には、朝食らしい朝食はない。いや、あっても自分は食べない。
食べると、金を使うことになる気がして怖い。
“自分が口に入れるもののために金を使う”というだけで、喉が締まる。
――だって、その金で女子の分を買わなきゃいけないのに。
遥は冷蔵庫を開けて、何も取らずに閉めた。
母が何も言わなくても、胸の奥で声がする。
(お前が食うな。無駄遣いすんな)
過去の罵声が、もう自分の声みたいに染みついて離れない。
仕方なく、机の引き出しの奥を探る。
古い筆箱の裏側、破れたお年玉袋、ちぎれたメモ帳に挟まった硬貨。
ずっと“取っておいた”わけじゃない。
ただ、使う勇気がなかっただけだ。自分のために使うという発想が、罪みたいに思えてずっと躊躇っていた。
今日は、その罪悪感に勝たなきゃ学校に行けない。
ふるえながら硬貨を集める。
机に並べると、たった四百三十円。
(足りない……絶対足りない)
でも、出すしかない。
これで、どうにか午前の注文二、三個をしのぐしかない。
遥は、次の手段として“自分の持ち物”を見回した。
新品のものなんてもう何もない。
鉛筆は短い。消しゴムは欠けて黒い。
着ている服も、兄のお下がりで、袖が少し長い。
(売れるもの……)
しばらく考え、諦める。
売れるどころか、笑われるだろう。
学校用のバッグを開け、中にたまったレシートを見つけた。
昔、男子に「お前まとめとけよ」と押し付けられたもの。
遥はそれをめくりながら、コンビニのアプリを開く。
バーコードを読み込み、ポイントをためる。
――悲しいほどに、冷静だった。
ポイントはたった数十円分。
それでも、ないよりはいい。
男子に「お前のポイントで俺らの飲み物買っていいよな?」と言われる未来が容易に想像できて、胃がしめつけられた。
(でも、今は……それでも助かる)
遥は、ため息もつけずに鞄を閉じた。
少し息が詰まり、胸を押さえる。
――金を集めることが、もう“生きること”みたいになっている。
学校に行けば、午前の購買、昼の購買、放課後の自販機。
「おい、今日暑いからアイス」
「スイーツ食べたい」
「ジュース買ってこい」
“パシリ”と呼ぶのも面倒なほど、当然の行為として命令が降ってくる。
遥は逆らわない。逆らえば、もっと痛い目に遭う。
(今日は……何人分頼まれるんだろう)
考えるだけで背中が冷える。
財布が軽くなるより、自分の体重が消える方が早い気すらした。
玄関に立つと、影が揺れた。
兄の晃司が廊下を歩いてくる。
目が合うと、遥の指先がまた震える。
晃司は一瞬、遥の手元――財布を見た。
その目が、言葉より残酷だった。
「また金、足りない顔してんな。情けねぇ」
遥は何も言えなかった。
言い返せる性格じゃない。
黙った瞬間、敗北が決まる。
「ほら行けよ、邪魔」
肩を押され、靴が音を立てた。
身体の揺れより心の揺れがひどい。
家を出ると、冷たい空気が頬に刺さった。
遥は、ため息のかわりに、喉の奥で小さく呟いた。
(今日も……なんとかする。しないと)
それは決意じゃなく、呪いに近かった。