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まきぴよ
129
財布を開くと、指先が震えた。
残っているのは、小さく折れた千円札が一枚と、くすんだ十円玉が八枚。
今日これで、クラスの“注文”を全部こなせるわけがない。分かっているのに、見なかったことにできない。
朝の光は眩しいのに、胸の奥だけが鉛みたいに重かった。
昨日、女子三人からスイーツと飲み物を頼まれ、男子二人にエナドリとホットスナックを押しつけられた。
合計は……思い出したくない。
財布が軽くなるたび、息まで薄くなっていく。
(今日……どうしよう)
遥は、蜘蛛の巣にひっかかった虫みたいに、静かに追い詰められていく感覚に慣れすぎていた。
慣れたくなんてなかったのに、もう“慣れた”としか言いようがない。
台所には、朝食らしい朝食はない。いや、あっても自分は食べない。
食べると、金を使うことになる気がして怖い。
“自分が口に入れるもののために金を使う”というだけで、喉が締まる。
――だって、その金で女子の分を買わなきゃいけないのに。
遥は冷蔵庫を開けて、何も取らずに閉めた。
母が何も言わなくても、胸の奥で声がする。
(お前が食うな。無駄遣いすんな)
過去の罵声が、もう自分の声みたいに染みついて離れない。
仕方なく、机の引き出しの奥を探る。
古い筆箱の裏側、破れたお年玉袋、ちぎれたメモ帳に挟まった硬貨。
ずっと“取っておいた”わけじゃない。
ただ、使う勇気がなかっただけだ。自分のために使うという発想が、罪みたいに思えてずっと躊躇っていた。
今日は、その罪悪感に勝たなきゃ学校に行けない。
ふるえながら硬貨を集める。
机に並べると、たった四百三十円。
(足りない……絶対足りない)
でも、出すしかない。
これで、どうにか午前の注文二、三個をしのぐしかない。
遥は、次の手段として“自分の持ち物”を見回した。
新品のものなんてもう何もない。
鉛筆は短い。消しゴムは欠けて黒い。
着ている服も、兄のお下がりで、袖が少し長い。
(売れるもの……)
しばらく考え、諦める。
売れるどころか、笑われるだろう。
学校用のバッグを開け、中にたまったレシートを見つけた。
昔、男子に「お前まとめとけよ」と押し付けられたもの。
遥はそれをめくりながら、コンビニのアプリを開く。
バーコードを読み込み、ポイントをためる。
――悲しいほどに、冷静だった。
ポイントはたった数十円分。
それでも、ないよりはいい。
男子に「お前のポイントで俺らの飲み物買っていいよな?」と言われる未来が容易に想像できて、胃がしめつけられた。
(でも、今は……それでも助かる)
遥は、ため息もつけずに鞄を閉じた。
少し息が詰まり、胸を押さえる。
――金を集めることが、もう“生きること”みたいになっている。
学校に行けば、午前の購買、昼の購買、放課後の自販機。
「おい、今日暑いからアイス」
「スイーツ食べたい」
「ジュース買ってこい」
“パシリ”と呼ぶのも面倒なほど、当然の行為として命令が降ってくる。
遥は逆らわない。逆らえば、もっと痛い目に遭う。
(今日は……何人分頼まれるんだろう)
考えるだけで背中が冷える。
財布が軽くなるより、自分の体重が消える方が早い気すらした。
玄関に立つと、影が揺れた。
兄の晃司が廊下を歩いてくる。
目が合うと、遥の指先がまた震える。
晃司は一瞬、遥の手元――財布を見た。
その目が、言葉より残酷だった。
「また金、足りない顔してんな。情けねぇ」
遥は何も言えなかった。
言い返せる性格じゃない。
黙った瞬間、敗北が決まる。
「ほら行けよ、邪魔」
肩を押され、靴が音を立てた。
身体の揺れより心の揺れがひどい。
家を出ると、冷たい空気が頬に刺さった。
遥は、ため息のかわりに、喉の奥で小さく呟いた。
(今日も……なんとかする。しないと)
それは決意じゃなく、呪いに近かった。
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