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#怖い
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山道の応急処置がひと段落した翌日、花屋「花は散らない」の裏口には、泥のついた長靴と洗い終えたロープが並んでいた。朝の空気はよく晴れているのに、皆の腕や肩には昨日の重さが残っている。霧守町の空だけが、何もなかったように青かった。
ハヤは配達用の木箱を片づけるため、倉庫の隅へしゃがみ込んだ。濡れた段ボールをどけ、古い新聞紙を持ち上げると、その下から細長い布包みが出てくる。見覚えのない木綿の端が、きっちりと二重に結ばれていた。
「それ、何ですか」
エフチキアがすぐ隣へ顔を寄せる。
「分からない。前からあったかな」
布をほどくと、中から一本の花ばさみが現れた。持ち手は黒く塗られ、刃先には細かな研ぎ跡が残っている。古いのに、刃の合わせが驚くほどきれいだった。使われずに眠っていた道具ではない。誰かが、つい最近まで手入れしていたような光り方をしている。
澄江が帳場から立ち上がり、ゆっくり近づいてきた。
「それは、あの子の」
あの子、と澄江が言う時、たいていそれはハヤの母のことだ。
「お母さんの……?」
「そう。切れがよくて、手になじむからって、最後までそればかり使っていたよ」
ハヤは、はさみを両手で持ち直した。思ったより軽い。けれど軽いままではなく、握る指へじわじわ重さが移ってくる。母の顔は写真でしかはっきり覚えていない。けれど、朝の水揚げの時に袖をまくる動きや、花の高さをそろえる手つきなら、なぜか想像できた。
ノイシュタットが少し離れたところで、珍しく余計なことを言わずに見ている。
エルドウィンは洗い終えたロープを干しながら、目だけこちらへ向けた。
澄江は布の端を撫でた。
「ずっと研いでいたんだよ。いつか、持つ日が来るかもしれないと思って」
「私が?」
「ほかに誰がいるの」
答えは静かだったのに、逃げ道がなかった。
ハヤは試しに、店先でまだ蕾の硬い白いトルコキキョウを一本持った。刃を当てる角度を少し迷う。すると澄江が隣に立ち、手首だけをほんの少し動かした。
「そこ。花に聞かないで、自分で決める」
ぱちん、と乾いた音がした。茎はつぶれず、きれいに落ちた。切り口から青い匂いが立ち上がる。
エフチキアが目を丸くする。
「わ、音が全然ちがう」
「切れ味がいいだけです」
ハヤはそう言ったが、声は思ったより弱かった。
ノイシュタットが、ようやく口を開く。
「受け継ぐというのは、重たいものを背負うことだと思っていたけど」
「また急に始まった」
「違う。今のは、手に合うものが戻ってきた音だった」
言い方は相変わらず回りくどい。けれど、その一言は嫌ではなかった。
ハヤは切った白い花を、水の入ったバケツへ移した。母の物を継ぐことは、誰かの代わりになることだと思っていた。けれど今、手の中にあるのは代わりではなく、続きなのかもしれない。
継ぐことの重みが、初めて嬉しいと思えた。