大木から指示された急な仕事のおかげで、私の昼休みは潰れた。しかし社内便の締め切り時間と、高原との約束の時間になんとか間に合わせることができて、ほっとする。
基本的にデスクワークだが、それでもお腹はすく。デスクの引き出しに常備しているクッキーを二、三枚口にして、私は空腹をしのいだ。
それを見ていた久美子が顔をしかめる。
「ねぇ、大丈夫?あいつのやり方、あんまりひどい時は、本部長とか人事に直接言った方がいいんじゃないの?」
「でも、あと半年でいなくなるはずだし」
「ああいう人はきっと、どこに行っても同じことするよ。もしかしたら、前科だってあるかもしれない」
「そう、ね。少し考えておく」
「一人で抱え込むのは、やめなよ。何かやっておくことがあるなら言って。こっちは今日、余裕あるからさ」
持つべきものは頼もしい同僚だ。私はにっと笑って礼を言った。
「ありがとね」
「どういたしまして。……そう言えば、もうそろそろいらっしゃいますかね。例の御曹司が」
「御曹司ねぇ……」
私は苦笑しながら、壁掛け時計を見上げた。間もなく三時半かと俄かに緊張する。
戸田の声がした。
「いらっしゃいましたよ」
ガラスのドアの向こう側に男性の姿が見えた。
私はさっと身なりを整えて、手元に用意していた書類を抱いて椅子から立ち上がった。カウンターまで出て、高原を出迎える。
彼は、パリッとしたダークグレーのスーツを身に着けていた。がっしりとした体格ではあるが上背があってスタイルがいいから、認めるのは悔しいけれどかっこいい。
背後で戸田が感心したようなため息をもらすのが聞こえた。彼氏がいてもこういうのは別なのかと、つい感心してしまう。
「今日はよろしくお願いいたします」
高原は口元に笑みを刻み、軽く頭を下げた。
彼のその表情にはどうにも慣れない。私は伏し目がちに挨拶を返す。
「お待ちしておりました。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
いつも通りに対応できているだろうかと心の中で自問自答する。
そこに課長の大木が、笑顔を貼り付けてやって来た。高原の前に立ち、名刺入れから名刺を取り出す。
「いらっしゃいませ。課長の大木と申します」
「高原です。この度はお世話になります。よろしくお願いいたします」
挨拶と名刺交換が終わると、大木は少しだけ顎の先を上げるような姿勢を取って言った。
「マルヨシ様にはいつも大変お世話になっております。社長様とはしばらくお会いしておりませんが、お元気でいらっしゃいますか?」
「はい、おかげさまで」
「聞いていらっしゃるとは思いますが、今日は、この早瀬が対応させて頂きます。もしも彼女の説明では分かりにくい、あるいは不安だと思われることがあれば、いつでも私をお呼びください」
外部の人がいても、大木が私を貶めるような物言いをするのは、今に限ったことではない。いつものことだと諦め、不愉快な気持ちを押し殺し、私はただ微笑みを浮かべてやり過ごそうとした。
しかし高原がやんわりと言った。
「早瀬さんに任せておけば安心だと、父から聞いています。ですから大木課長のお気遣いは不要かと」
それは大木にとって予想外の反応だったらしい。自信満々だった顔が引きつっている。
「……そう、でしたか。出過ぎたことを申し上げてしまいましたね。それでは早瀬さん、後はよろしく頼んだよ」
「承知いたしました」
明らかに動揺している大木に対して、私は丁寧すぎるほど丁寧にお辞儀をした。ほんの少しだけ気が晴れて、心の中で高原に感謝した。
大木が去った後、私は高原を別室に案内した。フロアの一角にある来客対応のための個室である。彼が椅子に腰を下ろすのを待って自分も座り、改めて頭を下げる。
「本日はご足労いただきまして……」
「挨拶はいらないよ。早く始めて、さっさと終わらせよう」
高原に愛想のない顔で挨拶を遮られ、苛立ってしまう。ついさっき抱いた感謝の気持ちは一瞬にして消滅し、私は眉根を寄せたまま彼の前に資料や書類を広げた。全部並べ終えてから、お茶を出していなかったことに気づく。
「少々お待ちください。今、お茶をお持ちします」
言いながら立ち上がろうとした私を高原は止める。
「いらないよ」
「でも……」
「早瀬さんが必要ならどうぞ。でも、俺はいらないから」
「そう、ですか?」
「あぁ」
それならそれで時間の節約になっていいかと、私は座り直す。
「それでは、このまま始めても大丈夫ですか?」
「えぇ、お願いします」
高原は急に言葉遣いを改め、持参していたカバンの中から筆記用具を取り出した。
彼への説明が終わるまでの間、ずっとやりにくさを感じていた。あの夜カラオケ店で捨て台詞めいた嫌味を言い放ったのは、彼とは二度と会うはずがないと思っていたからに他ならない。それがまさかこんな形で再会してしまうことになるとは、まったくの予想外だった。
「――以上です。何かご質問はありますか?」
「いや、ありません。とてもわかり易かった」
高原に真顔で褒められて反応に困った。おかげで言葉がどもりがちになってしまう。
「そ、そうですか。も、もし後で何かあれば、ご連絡ください。大宮からご説明などさせて頂きますので……」
「えぇ、分かりました」
高原は私が渡した資料をまとめ、丁寧にカバンの中に仕舞いこんだ。
無事に終わったことにほっとしながら、私は彼に頭を下げる。
「今日は長時間ありがとうございました。大変お疲れ様でした」
「早瀬さんこそ、お疲れ様でした。ところで君は、この後は忙しいのか?」
丁寧だった高原の口調が元のくだけたものに戻った。そのスムーズな切り替え方に戸惑いながら、私はつい素直に答えてしまう。
「いえ、特には」
「勤務は五時まで?」
「はい」
「あと三十分くらいってとこか。あぁ、そうだ。帰る時に、大木課長に挨拶していこうと思うんだけど」
「分かりました。カウンター前で少しお待ち頂けますか」
カウンター前まで高原を先導してから私は大木の席へ行く。
「ご説明とお手続きが終わりました。高原さんが、課長にご挨拶したいと仰っているのですが」
「そうか、分かった」
大木は他人から『立てられる』ことが好きだ。機嫌のいい顔でいそいそとカウンター前で待つ高原の元へと向かう。
「今日はお疲れ様でした。何か問題はありませんでしたか?」
「えぇ、早瀬さんのおかげですべてスムーズに終わりました。ところで大木課長、今日この後早瀬さんをお借りしたいのですが、よろしいでしょうか」
大木は困惑した顔で高原を見上げた。
そして私もまた、なぜそんなことを言い出したのかと彼の意図が読めずに困惑していた。
「どういうことでしょうか?」
怪訝な顔で訊ねる大木に高原は答えた。
「これからは私も早瀬さんにはお世話になりますから、この後、父を加えて懇親の席を設けさせていただきたいと思ったのです。急なことで申し訳なかったのですが、先ほど早瀬さんに予定を伺ったら、今日は残業の予定はないと仰っていました。父も是非にと言っておりましたし、よろしいですよね?」
高原の言葉遣いは柔らかく丁寧だったが、底の方には有無を言わせない押しの強さのようなものが感じられた。
「それは、まぁ、社長様もそう仰っているのでしたら……」
大木は不服顔だった。どうして私だけが呼ばれて、その上司である自分には声がかからないのかとでも思っているのだろう。しかしマルヨシの社長相手では拒否できないようで、大木は仕方なさそうに頷いた。
「分かりました。……早瀬さん、念のため確認するけど、今日残っている仕事はないんだね?」
「はい、急ぎのものはありません。……ですが、私がご一緒しても構わないのでしょうか。むしろ、大宮の方がいいのでは」
大木はふんっと鼻で嗤う。
「私もそう思わないでもないが、社長が是非にと君をご指名のようだから」
いちいち癇に障る言い方をする人である。しかし私は表情を変えずに頭を下げた。
「分かりました。では、行ってまいります」
「片づけたら今日はもう上がっていい。お待たせしてはいけないからね」
「はい。そうさせていただきます」
私は久美子の方に目をやった。
彼女は胸の前で両手を組み合わせて、丸を作って見せた。たぶん、後のことは任せろという意味だろう。
高原は私に向き直り、頬を緩めて微笑んだ。
「それではそういうことで、よろしくお願いします。私は一階のロビーで適当に時間を潰しています。ゆっくりと支度していただいて構いませんから」
「はい、承知しました」
高原の後ろ姿をその場にいた職員全員で見送る。
その後私は慌ただしくデスク周りを片づけた。まだ苦い顔をしている大木に挨拶をすませ、久美子と戸田に後のことを頼む。なぜか二人が目を輝かせて私を見ていたのが気になったが、その理由を聞くのはまた今度だ。高原を待たせてはいけないと思い、私は帰り支度をするためにロッカールームへと急いだ。
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