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遥は、日下部の胸に顔を埋めたまま、呼吸の仕方すら忘れたように、ただ沈黙していた。けれどその沈黙は、これまで遥が経験してきた“恐怖の静けさ”とは違っていた。
誰にも触れられず、音もなく時間が過ぎていくあの教室の片隅。
誰にも気づかれず、ただ“もの”のように扱われていた日々とは、まったく違う。
「なあ……」
遥の声が低く、かすれて漏れた。
「……もし、俺がさ……今ここでお前にキスしてって言ったら、する?」
問いかけというより、試すような声音。
正解を望んでいない。
拒絶も期待も、すべてを含んで投げつけた、壊れそうな言葉だった。
日下部はすぐに答えなかった。
けれど腕の力をゆっくりと緩め、遥の顔を見ようと姿勢を変えた。
「それって……してほしいから言った?」
「わかんねえよ。俺にも」
遥は笑う。
けれどその笑みは、崩れそうな仮面だった。
「なあ、ずっと……“される”側だったんだよ、俺。何も言わなくても誰かが触ってきて、笑ってきて、言葉なんかいらなかった。そういうのばっかだった」
言葉の端が震える。
「だから、お前みたいに……聞かれると、困る。自分の気持ち、言葉にするのが、怖くなるんだよ」
日下部は、遥の手をそっと取った。
「無理に答えなくていいよ。怖くても、言えなくても、俺は……待つから」
遥の目が、にじんだ。
「待たれるのが、一番怖いんだけどな」
「でも、待つよ」
遥は俯き、小さく笑った。
その笑みはほんのわずかに本物で、そしてひどく痛々しかった。
感謝でも愛情でもない、まだ名前のない感情。
それでも遥は、その夜、初めて“何もされない”時間に身を委ねた。
されないことが、こんなに温かいなんて知らなかった。