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夕方のスタジオは、ライトの調整音とスタッフの笑い声が混ざり、昼間より少しだけ賑やかだった。
今日は雑誌用のカットで、別のカメラマンがメインを担当している。
泉は指定された位置に立ち、リズムよくシャッターが切られていくのに合わせて表情を変える。
柳瀬は端のモニター席で、腕を組んでその様子を見ていた。
──はずだった。
撮影の合間、カメラマンの男が泉に何か耳打ちし、泉が思わず笑ってしまった瞬間。
スタジオの空気が、泉の背筋だけを選んで冷やすように変わった。
泉は無意識に視線を横に滑らせた。
柳瀬が、モニターの光に照らされていた。
表情は普段とほぼ変わらない。けれど、指先が微かにリズムを刻む癖が出ていた。
──機嫌の悪いときの癖。
泉はすぐ視線を戻す。
けれど、心臓の鼓動だけが落ち着かない。
撮影が終わり、スタッフが片付け始めた頃、柳瀬が近付いてきた。
歩く足音は静かなのに、距離の詰め方だけが異常に早い。
「……楽しそうだったな」
いつもの声なのに、言葉の温度が低い。
泉はタオルを握りながら、反射的に否定する。
「い、いや、ちょっと雑談しただけで──」
「雑談で、あんな顔できるんだ」
柳瀬が、泉の目の前で立ち止まる。
触れていないのに、胸元あたりに柳瀬の体温が影のように覆いかぶさる。
「……そんな顔、してました?」
「してた。自覚ないだろ」
言われると、途端に頬が熱くなる。
あの一瞬の笑顔を、柳瀬がモニター越しに見ていた事実が、なぜか恥ずかしかった。
「いい表情だった」
褒められたと思った、そのとき。
「──だから」
柳瀬が一歩近付く。
肩に触れない、ほんのギリギリの距離。
泉は息を飲む。
「次、俺にも見せろ」
囁くような声だった。
優しく聞こえるのに、命令と同じ強さを持っている。
「……っ」
「さっきの笑顔、仕事じゃなくても出せるんだな。なら俺の前でもできるだろ」
「ち、違います。あれは……」
「違わない」
泉が否定しようとした瞬間、柳瀬の指が、泉の頬のすぐ近くを――触れずに、かすめる。
指先が通った軌跡に、風もないのに熱が宿ったようだった。
気づけば、泉の喉が小さく鳴っていた。
柳瀬の目が、その反応を逃さない。
「……ほら。やっぱり、俺の方がいい顔できるじゃないか」
「そ、そういう話じゃ……っ」
「じゃあ何の話だ?」
誘い込むように、柳瀬が少しだけ身体を傾ける。
触れないのに、肩がぶつかりそうな距離。
泉は思わず下がろうとするが──背中にラックがあり、逃げ場を失った。
その一瞬の“動けなさ”を、柳瀬は見逃さない。
「さっき笑ってたの、別に気にしてないよ」
声は柔らかい。
けれど、泉の胸の奥をきゅっと掴むような圧がある。
「嫉妬した、とか思うだろ?」
「え……」
「してない」
冷たく断言する声。
そこに感情らしきものは何ひとつ含まれていない。
それが逆に、泉の胸をざわつかせた。
柳瀬は、泉の目をじっと見つめながら続ける。
「ただ、お前が他の誰かと笑った“成果”を、次に俺が利用できる。それだけだ」
嫉妬ではない。
所有欲でもない。
“利益”。
泉は息を吸うのも忘れた。
「……そんな言い方、ずるいですよ」
「ずるくない。事実だ」
言い切る柳瀬は、完全に仕事の顔をしていた。
なのに距離だけは、仕事のそれではあり得なかった。
「……でも」
泉は喉を震わせながら言葉を探す。
「俺、その……あなたの前だと、変になります」
「知ってる」
柳瀬は迷いもせず答えた。
「だから利用するんだよ。お前のその反応を」
泉は胸の奥が苦しくなるのを感じた。
利用されているだけ、という言葉が浮かびかける。
けれど同時に──
“それでも、この距離に触れられるのが怖くない自分”がいることにも気づく。
柳瀬が最後に、泉の耳元で低く囁いた。
「次は笑わせてやるよ。……俺が」
触れていないのに、触れられたように震えた。
泉は、否定できなかった。