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四月になった。
校門のそばに植えられた桜は、風が吹くたびに花びらを散らしていた。
美咲は昇降口で新しいクラスの名簿を確認し、少しだけ眉を寄せた。
三年生。
自分の名前の横に書かれた数字を見て、ようやく実感が湧いてくる。
「ほんまに三年生になってもうた」
隣から咲希が名簿を覗き込んだ。
「そらなるやろ。二年生の次は三年生やねんから」
「分かってるって。そういう意味ちゃうねん」
「じゃあ、どういう意味?」
「なんか……もう高校生活、あと一年しかないんやなって」
咲希は名簿から目を離し、美咲を見た。
「急にしみじみしてるやん」
「昨日までは全然そんなこと思ってへんかったのに」
「昨日まで春休みやったからな」
「それは関係ある?」
「あるんちゃう?」
二人で笑いながら教室へ向かった。
新しいクラスには知っている顔もあれば、ほとんど話したことのない顔もあった。席に着いてからも、教室のあちこちで新学期らしい声が飛び交っている。
美咲は窓の外を見た。
去年の今頃は、三年生になる自分なんて想像もしていなかった。
花火部に入って、先輩たちに教えてもらって、失敗して、怒られて、笑って。
その中に、いつも直人がいた。
今はもう、学校にいない。
卒業したのだから当たり前のことなのに、ふとした瞬間に、その当たり前が寂しくなる。
携帯を取り出すと、直人からメッセージが届いていた。
『三年生になったな。おめでとう』
美咲はすぐに返信した。
『ありがとう。まだ実感ないわ』
『すぐ慣れる』
『先輩がおらん学校にも?』
送信してから、少しだけ画面を見つめた。
すぐに返事が来た。
『学校にはおらんけど、連絡はできるやろ』
美咲は思わず笑った。
『そういうこと言うんずるいわ』
『何が?』
『別に』
携帯をしまうと、咲希が横から顔を覗かせた。
「誰?」
「直人先輩」
「相変わらず連絡してるんや」
「うん」
「ええなあ」
「何が?」
「いや、別に」
咲希は意味ありげに笑って、自分の席へ戻っていった。
放課後、美咲は花火部の部室へ向かった。
扉を開けると、亮介が机の上に資料を広げていた。
「お、来たな」
「何してんの?」
「去年の活動記録。新入生が見学に来たときに説明できるように、整理しとこうと思って」
「そんなことするんや」
「するやろ。去年まで先輩らがやってくれてたことやし」
亮介は資料の束を持ち上げた。
「それに、今年は俺らが上の学年やからな」
「そうやけど」
「なんや、その反応」
「まだ自分が三年生って感じせえへん」
「俺もや。こないだまで二年やったのに、急に一番上って言われてもな」
咲希が部室に入ってきた。
「一番上って言うても、私ら以外に新しい一年生が入ってくるかも分からんやん」
「まあ、それはそうやな」
亮介は資料を机に置いた。
「見学に来てくれたらええけど、入ってくれるかは分からんしな」
「来てくれたら嬉しいけどな」
美咲は棚に並んだ道具を見た。
入学してすぐこの部室に来たときのことを思い出す。
何も分からず、道具の名前も扱い方も知らなかった。
直人が一つずつ教えてくれたこと。
失敗したときに、すぐ答えを教えるのではなく、どうすればよかったのかを一緒に考えてくれたこと。
自分ができるようになるまで、何度も付き合ってくれたこと。
「美咲?」
亮介の声で我に返った。
「ん?」
「何ぼーっとしてんねん」
「入部してからのこと思い出してた」
「直人先輩?」
「うん」
亮介は少し笑った。
「まあ、あの人には世話になったからな」
「亮介も?」
「俺もや。お前ほど素直に教わってへんかったけど」
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味や」
咲希が資料を覗き込む。
「でも、直人先輩が卒業しても、花火部は続いていくんやな」
「そらそうやろ」
亮介が答えた。
「先輩がおらんくなったからって、終わるわけちゃうし」
その言葉に、美咲は小さく頷いた。
分かっている。
直人が卒業したことと、花火部が続いていくことは別の話だ。
けれど、これまで当たり前にあったものが一つなくなっただけで、部室の景色は少し違って見えた。
「今年の活動、どうする?」
咲希が尋ねた。
「まずは去年の記録を見直して、できることからやろうや」
亮介が答える。
「新入生が来たら、そのとき考えたらええし」
「そうやな」
美咲も資料を一枚手に取った。
そこには、去年の活動内容や準備の手順が細かく記録されていた。
自分が知らないことも、まだまだある。
三年生になったからといって、急に何でもできるようになるわけではない。
それでも、入部したばかりの頃の自分よりは分かることが増えている。
「これ、私がまとめ直してもええ?」
「ええで。去年の記録、ちょっと分かりにくいところあるしな」
「じゃあ、ここからやるわ」
美咲は椅子を引き寄せ、資料を机に広げた。
作業を始めると、思ったより時間がかかった。
書かれている内容を確認しながら、分かりにくい部分に印をつける。実際に自分が作業したときのことを思い出し、説明を付け足していく。
「ここ、道具の名前だけ書いても分からんと思う」
「確かに。使い方も書いといた方がええな」
亮介が横から覗き込んだ。
「それ、俺らが欲しかったやつやな」
「そうそう。何も分からんかったもん」
「お前、最初の頃は道具持つたびに直人先輩呼んでたもんな」
「だって分からんかったんやもん」
「今は?」
「今も分からんことはあるで」
「堂々と言うなや」
咲希が笑った。
「分からんことがあるのは普通やろ。全部知ってる人なんかおらんし」
美咲はペンを動かしながら頷いた。
「そうやな。分からんことを分からんままにせんかったらええんやと思う」
言ってから、少しだけ手を止めた。
それは、直人に何度も言われたことだった。
分からないなら聞けばいい。
失敗したなら、次にどうするか考えればいい。
できないことを隠して、できるふりをする必要はない。
自分が教わってきたことが、少しずつ自分の中に残っている。
それを誰かに伝えられる日が来るのかもしれない。
ただ、今すぐ誰かに教えられるほど、自分が立派になったとは思えなかった。
「なあ」
美咲が顔を上げる。
「もし新入生が入ってきたら、私らが教えることになるんかな」
「そら、分かることは教えるやろ」
亮介が答えた。
「でも、全部は無理やで。俺らもまだ勉強中やし」
「それでええんちゃう?」
咲希が資料を揃えながら言った。
「先輩やからって、何でも知ってなあかんわけちゃうし。知らんことは一緒に調べたらええやん」
「一緒に、か」
「そう。私らもそうやって教えてもらってきたやろ」
美咲は資料に目を戻した。
先輩になったから、大人になるわけではない。
三年生になったから、急にしっかりするわけでもない。
それでも、自分が受け取ったものを、次に渡していくことはできる。
そのときに、分からないことがあれば一緒に考えればいい。
そんなふうに思えた。
部室を出る頃には、窓の外が夕焼けに染まっていた。
校門へ向かう途中、美咲は携帯を取り出した。
直人とのやり取りを開く。
『今日、部活で去年の記録整理してた』
少し考えてから、続けて送った。
『先輩が教えてくれたこと、結構残ってるんやなって思った』
しばらくして、返事が届く。
『それならよかった』
『でも、まだ分からんこといっぱいあるわ』
『それでいいと思う』
『三年生やのに?』
『三年生でも分からないことはあるやろ』
美咲はその文章を読み返した。
『先輩も?』
『もちろん』
『ほんまに?』
『俺を何やと思ってるんや』
美咲は声を出して笑った。
『何でもできる人』
『そんなわけないやろ』
『そうなん?』
『そうやで』
少し間を置いて、もう一通届いた。
『分からんことがあるのは悪いことちゃう。分からんままにせんかったらええ』
美咲は画面を見つめた。
部室で自分が考えていたことと、同じだった。
『それ、前にも聞いた気がする』
『何回でも言うで』
『もう覚えたわ』
携帯を閉じ、鞄にしまった。
校門の外では、桜の花びらが歩道に積もっていた。
高校生活最後の一年。
その先に何が待っているのか、美咲にはまだ分からない。
大人になるということも、きっと一つの答えがあるわけではないのだろう。
知らないことを知っていくこと。
誰かに教えてもらったことを、自分の中に残していくこと。
そして、いつか自分が誰かの力になれるようになること。
まだ自信はない。
けれど、去年の自分とは少し違う。
美咲は桜の花びらを踏まないように歩きながら、家へと向かった。
その夜、家に帰ると、食卓には夕飯が並んでいた。
「おかえり。学校どうやった?」
父が食卓から顔を上げた。
「新しいクラス、まあまあやったで」
「部活は?」
「去年の活動記録を整理してた。新入生が来るかもしれへんし」
「そうか。もう三年生やもんな」
「うん」
父は美咲の顔を見て、少し笑った。
「早いなあ」
「ほんまやな。自分でもびっくりしてる」
「最後の一年、楽しみやな」
「そうやな」
美咲は席に座った。
楽しみなこともある。
寂しいこともある。
まだ決められないことも、分からないこともたくさんある。
それでも、今の自分にできることを一つずつやっていこうと思った。
食事を終え、自分の部屋に戻る。
机の上には、昼間の部室で持ち帰った資料のコピーが置いてあった。
美咲はそれを開き、書き足した説明をもう一度読み返した。
直人に教えてもらったこと。
亮介や咲希と一緒に覚えたこと。
失敗して、悔しくて、それでも続けてきたこと。
どれも、今の自分につながっている。
携帯が鳴った。
『明日も部活?』
直人からだった。
『うん。資料の続きやる』
『頑張りすぎんようにな』
『分かってるって』
『ならいい』
美咲は少し迷ってから、もう一通送った。
『先輩がおらんくなって、ちょっと寂しいわ』
送信したあと、頬が熱くなった。
すぐに返事が来るとは思っていなかった。
けれど、少しして携帯が震えた。
『俺も、部室に行けなくなったのは寂しい』
美咲はその言葉を何度か読み返した。
『また会えるやん』
『そうやな』
『今度、どっか行こ』
『ええよ』
短いやり取りだった。
それでも、胸の奥にあった寂しさが少しだけ和らいだ。
美咲は携帯を枕元に置き、机の上の資料を閉じた。
三年生になったからといって、何もかもが変わるわけではない。
変わっていくものもあれば、変わらずに続いていくものもある。
その両方を抱えながら、自分は少しずつ先へ進んでいくのだと思った。
まだ知らない未来のことを考えると、不安がないわけではない。
それでも今は、明日の部活が楽しみだった。
コメント
1件
〈第23話〉お疲れさまでした〜! 「分からんことを分からんままにせんかったらええ」っていう直人先輩の言葉が、美咲の中でちゃんと生きてる感じがすごく良かったです。三年生になったからって急に大人になれるわけじゃなくて、でも確かに去年の自分よりはちょっとだけ違う——そのさじ加減、すごく丁寧に描かれてましたね。亮介と咲希とのやり取りにも温かみがあって、部室の夕焼けの場面、すごく心に残りました🍃