テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
久我は、その日の報告書を書かずに席を立った。
代わりに向かったのは、上層部の会議室だった。
ガラス越しに見える夜景は、 やけに遠い。
「――結論は出ている」
部長の声は、感情を削ぎ落としていた。
「黒瀬を起訴。
動機も凶器も揃っている」
「真犯人が別にいます」
久我は、淡々と返す。
「可能性の話だろう」
「事実です」
一瞬の沈黙。
だが、誰も資料をめくろうとしない。
「久我」
上司が言う。
「これ以上掘る必要はない」
久我は、その言葉の意味を理解していた。
――掘れば、
別のものが出てしまう。
「……承知しました」
久我は、そう答えて会議室を出た。
廊下を歩きながら、胸の奥で何かが冷えていくのを感じる。
その足で、取り調べ室へ向かった。
黒瀬は、すぐに気づいた。
「……決まりましたか」
「ああ」
久我は、椅子に腰を下ろす。
「君は、このまま起訴される」
「そうですか」
黒瀬は、静かに息を吐いた。
「あなたは?」
「私は、異論を出さない」
一瞬、
黒瀬の瞳が揺れた。
「……それで、いいんですか」
「条件がある」
久我は、はっきりと言った。
「条件?」
「君は、これ以上何も話さない」
黒瀬は、目を細める。
「真犯人についても?」
「ああ」
「……それは、あなたを守る選択ですか」
「違う」
久我は、視線を逸らさず答えた。
「君を、これ以上利用させないためだ」
黒瀬は、ゆっくりと理解したように頷いた。
「取引ですね」
「そうだ」
久我は、低く続ける。
「君が黙るなら、私は、君を“確実に有罪にする”」
黒瀬は、笑った。
初めて、
はっきりとした笑みだった。
「……残酷ですね」
「承知の上だ」
「でも」
黒瀬は、久我を見る。
「それは、あなたが私を “守る側”に回った ということでもある」
久我は、否定しなかった。
「……私は、正義を選ばなかった」
「ええ」
黒瀬は、静かに言う。
「だからこそ、信じられる」
久我の胸が、軋む。
「……君は、それでいいのか」
「条件があります」
黒瀬は、同じ言葉を返した。
「何だ」
「最後まで、あなたが担当してください」
久我は、息を止めた。
「……それは」
「あなたでなければ、この取引は成立しない」
黒瀬の声は、揺れなかった。
「私は、あなたに裁かれたい」
久我は、目を閉じる。
――取引。
だがそれは、 利害の一致ではない。
互いに、最も逃げられない場所を差し出す行為だ。
「……分かった」
久我は、短く答えた。
黒瀬は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その言葉が、感謝なのか、宣告なのか、
久我には分からなかった。
立ち上がる直前、黒瀬が言う。
「久我さん」
「何だ」
「あなたが守るなら、私は、全部背負います」
久我は、答えなかった。
答えられなかった。
取引は成立した。
書面も、署名もない。
だがそれは、どんな契約よりも重かった。
――この瞬間、
二人は、
同じ罪を
別々の形で
引き受けたのだから。